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by kai
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■『杏仁豆腐のココロ』
海のサーカス×スーパーエキセントリックシアター『杏仁豆腐のココロ』@ザ・スズナリ

佳梯かこ、久ヶ沢徹のふたり芝居。作・演出は鄭義信。初演から15年、再演は13年ぶり。その間さまざまな国で翻訳、上演が重ねられたものだそうです。チラシに書かれている鄭さんのコメントによると「今回の公演で最後になるかもしれない」とのこと。「(理由はいろいろあるけどね)」、と続く。初見。

雑然とした畳敷きの部屋、積み上げられた段ボール。部屋をぐるりと囲む廊下(通路)にはエッシャーの無限回廊のようなゆるい傾斜がかかっている。中央にはこたつ。クリスマスイヴ、明日には別々に家を出る元夫婦のやりとり。苛立つ妻、はぐらかす夫。言葉を重ねるうちに、取り戻すことのできない時間と関係が明らかになっていく。

上演を繰り返すごとにブラッシュアップされた部分もあるのだとは思うが、台詞に説明が多い。それが不思議なことに、「他人だから話さないとわからない」と登場人物ふたりが言葉を発すれば発する程、何故こうなってしまったかの説明をすればする程、語られなかった背景がその何倍もの質量で迫ってくる。夫は何故定職につかないのか、夫の姉の名前を妻が知らないのは何故か、ふたりがセックスレスになった(ふたりとも「したい」のにも関わらず!)のは何故か。語られなかったことには理由があり、その理由はあまりにも重い。互いを察し、互いを思いやるからこそ溝は深まる。ひとりが部屋を出ていき廊下を歩いていく時間、もうひとりはその足音を聴き乍ら考え込む。舞台上に部屋と廊下を隔てる壁はないが、その見えない壁こそがふたりの間に立ちはだかり、段ボールのように引っ越しで片付けることは出来ないものだ。前述したエッシャーの絵のように、踏み込んでも踏み込んでも戻って来るのは同じ場所、「やりなおすことは出来ない」。

そして「他人だから話さないとわからない」ふたりなのに、言葉がなくとも通じ合っている場面が端々に現れる。電話で話す妻のちょっとした言葉ですぐに彼女が出かけられるよう準備を始める夫、夫のちょっとした声のトーンに敏感に反応し、それに気付いている上でなおも彼を追いつめる妻。そして食事――と言える程ちゃんとしたものではないな、単に飲食と言った方がいいかもしれない――の際のルーティンがふたり揃うこと。脚本の機微と演者の力量がものを言う。タイトルにある「杏仁豆腐」は、クリスマスケーキを買ってくるよう妻に言われた夫が「2個買えば30円安くなるって言うから」と買ってきたもの。そもそも夫が買いものに出かけたのは妻に鍋焼きうどんを買ってくるよう言われたからで、そのうどんすらおでんに化けていた。生活のための仕事、生活のための習慣。思いやりに覆い尽くされた生活は、杏仁豆腐のようにちょっとしたことで崩れてしまうくらい危ういもの。「初めて自分から手に入れたいと思った」夫を妻は手放し、夫は妻のことを思ううえで離れていく。

女優になりたかったと言う妻が語る『桜の園』。かつて家にあった桜の木、父親が興し、自分も続けていきたかった稼業。劇中劇が、登場人物の心情に重なる。その台詞を「しばらく芝居から遠ざかっていた」佳梯さんが口にする。情感がこもる。キテレツな役を得意とする、もしくはそれを求められる作品に出ることが多い久ヶ沢さんが優しく繊細な男を演じる。久ヶ沢徹と言うきぐるみの中身を見た思い(そう思わせるところも役者の恐ろしさだな)。痛い言葉の数々は、劇作家の日常からどのくらい近いものなのだろうかと思う。取材によるものか、観察眼のなせる業か。そして具象的であり乍ら想像がいくらでも拡がる土屋茂昭の美術も素晴らしかった。ラストシーンに抱きあうふたりの姿は、そこで流れる曲も相俟って宗教画のようだった。ピエタ像…死んだキリストとマリア、と言うより、言葉の意味(Pietà)どおりの母子像。男は妻が愛情を得られなかった母親のように、女はこどもに戻った自分自身、そして失ったこどものように映った。


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12月12日(土)
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