ID:43818
I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
[648183hit]

■『スポケーンの左手』
『スポケーンの左手』@シアタートラム

マーティン・マクドナー作品のなかでもなかなか上演許可がおりないものだとのこと。その理由のひとつが、初演(2010年)の役者にあてがきしてあるからだそうで、その初演の役者と言うのはこちらのとおり。しかし当方この作品を初めて目にしたのが今回なので、先入観も抵抗もなく観ることが出来た。バイアスがあったとすれば「マクドナー作品」それ自体か。と言うのも、今作はマクドナーだわ〜、と言うものとマクドナーなのに?! と言うものの塩梅がとても心地よかったのだ。前者におけるヴァイオレンス描写。後者における結末の優しさ。

席が最前列だったのだが、上演前わざわざスタッフが「いろいろものが飛んできますのでご注意ください」と言いに来て、あちこちから「なにー?」「うわ〜マクドナー作品だからな〜(ニヤニヤ)」と言うような笑いが起こる。しかしビニールシートは配られていなかったので、血糊ではないんだな、とも思う。そこ迄考えるのもどうかと思うが、マクドナー作品だから人体損壊さもありなん、と覚悟して観に来ている部分はある。果たして血は飛んでこなかった。しかし雪合戦さながら投げつけられる人体のパーツは飛んできた。苦笑、苦笑。こんなことをする登場人物に苦笑し、それを見て笑ってしまう自分に苦笑する。登場人物たちは皆うそつきで、真実と事実は違うと思っていて、自分は被害者だと思っている加害者だ。

力関係はちょっとしたことで入れ替わり、誰も安全圏を確保することが出来ない。銃を持っていても、取引の条件を持っていても。しかしそこにひとり、自分の安全を確保しようとしない人物がいる。彼は「失われた左手」について、独自の、しかしまっとうな解釈を述べる。舞台はアメリカ。アイリッシュの要素は皆無。ただ、アメリカは移民の国で、アイルランド系も多くいる。左手を探し続けている人物がその手を失ったのはスポケーン。27年間探し続けて流れ着いたのはターリントン。ターリントンは架空の街のようだ。左手の思い出はスポケーンにしかない。その実体はどこにもない、あるいはすぐ傍にある。スポケーンには左手の思い出がある。断ち切れない母親がいる。では、今彼がいるターリントンには誰がいる? 何がある?

どいつもこいつも一筋縄ではいかず、関わりたくない人物ばかり。それでも撃つな、と願う。ライターに火をつけるな、と祈る。そしてマクドナーは観客のその思いに応える。残るのは安堵と、その何倍ものやりきれなさ。彼らは世界のあちこちにいて、些細なことから些細な金をくすねたり、些細な行き違いで身を危険にさらす。それは舞台上にあることではない。自分たちの日常にあることだ。運が悪ければ命を落とす。対面で設置された客席の間、細長く横たわる舞台に立つ役者たちは綱渡りをしているようだ。舞台から降りられるのはベルボーイだけ。ベルボーイだけが客席とコミュニケーションがとれる。そして左手の主とも唯一意思の疎通が出来る(ように感じる)。ベルボーイはひたすら自分に起こったことを話す。無差別乱射事件の話をする。そこにいる自分自身を想像する。かわいい女の子がいたら? 俺は彼女を助けられるだろうか? 助けたら俺はきっと女の子と仲良くなれる。乱射事件が起こればいいのに。そんな彼の独白を聞いている筈がないのに、左手の主は彼に自分と同じ臭いを嗅ぎとる。


[5]続きを読む

11月20日(金)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る