ID:43818
I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
[648217hit]
■『アドルフに告ぐ』
『アドルフに告ぐ』@KAAT 神奈川芸術劇場 ホール
近年欠かさず出演舞台を観ている成河さんに久々舞台復帰の煖エ洋さん、そして『十九歳のジェイコブ』でのユキ役が鮮烈な印象を残した松下洸平さんが共演なんて、願ったり叶ったりのキャスト。しかも演じるのは三人のアドルフ! マンガ原作の舞台にはなかなか接する機会が少ないのですが、これは観てよかったです。この三人をはじめ、役者がとにかく素晴らしい!
ひとりの少女が登場し、脚を高くあげて行進する。舞台を横切り乍ら唄い始める。続いてキャスト全員がテーマを群唱するオープニング。ゴリゴリのストレートプレイに(事前発表されていたミュージシャンがいることから)劇伴として生演奏が加わると思っていたので、ミュージカルのフォーマットで開幕したことにまず戸惑う。少女は虐げられる民族や庇護が必要なこどもたち、迫害の果て命を落としていった死者たちを代表する存在としてシーンのポイントごとに現れる。観終わってみれば歌の比率はミュージカル程多くなかった。一部音楽劇、と言えばいいだろうか。この塩梅は難しいところ。個人的な印象かもしれないが、ピタリとストーリーに寄り添う部分と、そのストーリーからヘヴィーな要素を削いでしまう部分があったように感じられた。
オープニングやエンディング、登場人物たちが恋に落ちる場面は、そのシーンの画ヅラ…と言えばいいだろうか、演者の立ち位置やダンスが音楽により昂揚する場面になっていた。しかし殺人やそれに伴う登場人物の心理に訴えかける場面では、歌詞や音楽が蛇足に思えてしまった。後者は特に、演者の表情や叫び、振る舞いに全ての集中力を持っていかれそうな程の熱量があったので、歌が入った途端に我に返ってしまった。
そうなのだ、役者たちの身体ひとつの熱演による牽引力の高さ、そして強さが凄まじい。マンガを演じるのではなく、生身の人間の言動がその熱量のあまり戯画化してしまう、その瞬間に心を奪われる。約60年にわたる物語が三時間に凝縮されているので、ひとりの人間の思想が変わり果ててしまう経過をじっくり見せることはしない。数秒で二年が経ち、心優しい少年が親友の父親を銃殺する。どうして彼はこんなに変わってしまったのか、ではなく、ひとはこうして変わることが出来るのだ、それは彼に限ったことではないのだ、と言う体感。気付いたときにはもう戻ることは出来ないと言う、このスピード。
配役もとても効果的。出演者はユダヤ人とドイツ人、そして日本人と複数の役を持ち、迫害する側される側を瞬時に演じ分ける。ちょっとしたきっかけでひとはどちらにも行きかねない象徴になっている。演劇ならではのマジックだ。谷田歩さんがあるふたりの人物の父親をそれぞれ演じたのが印象的。どちらの父親も、息子に祖国への忠誠心と誇りを植え付ける。そしてかつて息子だった人物に、別の人物の父親として引導を渡す。このリンクは強烈。
三人のアドルフはそれはもう凄まじい。三人はそれぞれ祖国を思い、祖国への忠誠を誓い、祖国に誇りを持とうとする。そしてひとり残らず祖国からそっぽを向かれる。彼らの思う正義は、立場を変えれば悪にしかならない。正義に執着すればする程道を外れていくカウフマンを演じる成河さんは、その翳りのない瞳で観客に訴え、澄んだ声で訴える。何故こうなってしまったんだ? 場をあたたかな光で包むかのように登場したカミルを演じる松下さんは、家族を奪われ、婚約者と信仰を蹂躙され、水が少しずつ加えられていくグラスのような青年の心を表現する。長い時間をかけて溜まっていった水が遂にグラスから溢れ出たとき、ひとはここ迄変われるのか、と言う姿を見せる。ふたりが最後に相見えるシーンは悲痛に満ちている。カウフマンが最後にとった行動には息を呑んだが、どこかで安堵するような気持ちを持つ。
そしてヒトラー、煖エさん。実在の人物に姿を寄せ、声(口調)を寄せ、それでいて役者・煖エ洋を強烈に刻みつけたヒトラー像を見せる。心のうちは読めない、それは実在の人物を理解することが出来ないのと同じことだ。その不可解さ、悔しさ、巡ってこれは自分のどこかにもあるのではと思わされる人間としての共感。恐ろしい演技だった。
[5]続きを読む
06月04日(木)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る