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by kai
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■『透視図』
維新派『透視図』@中之島GATE サウスピア

維新派、地元大阪で十年振りの野外公演! 待望ですわー。近年観た維新派の公演は『ろじ式〜とおくから、呼び声が、きこえる〜』、『風景画 ―東京・池袋』の二作。そのうち屋台村はあったが屋内だったのは『ろじ式』、野外だったけど屋台村がなかったのは『風景画』。そして『風景画』は気軽に行ける場所だったので、維新派を本気の野外で観るのは初めてです。ホームで観られたと言うことも嬉しかった。

『レミング』、『石のような水』、『十九歳のジェイコブ』と、ここ一年維新派以外の松本雄吉演出作品を立て続けに観ていたので、なんらかのフィードバックをこちらが勝手に期待してしまっている部分はあったと思う。それにしてもここ迄ストーリーが表出しているものは初めて観た。現象として観ると言ういつもの姿勢に、ストーリーを追う、探すと言う作業が加わる。以下ネタバレあります。

大阪の街を訪れ、荷物をかっぱらわれた少女ヒツジ(服装といい、荷物の形状といい、それはまるで戦災孤児のように見えた)に、少年がガイドを申し出る。ふたりは大阪のさまざまな場所、さまざまな時間を巡る。ガタロと名乗る少年は大阪の街と歴史について語り、ヒツジはこの街に移り住んだ祖母と、この街に生まれ育った母の話を始める。沖縄、朝鮮と言った大阪の文化を形成した地名が語られ、その一方で酉島、桜島と言った大阪独自の地名も語られる。“桜島”は鹿児島のことかと一瞬混乱する。自分は宮崎出身なので、桜島と言えばまず鹿児島が浮かぶのだ。しばらくしてそれは大阪のことだと気付き、そういえば松本さんの故郷は熊本だったなと思い出す。ヒツジとガタロの対話を縫うように、少女、男、女、少年たちが舞台上を通過して行く。そのときどきの服を着て、そのときどきの家財を運び、そのときどきの風景をまとい、歩く、走る、跳ぶ。ジグザグに走る。言葉がリズムによって彩られていく。

今作も決してストーリー主導ではない。わたし(=ヒツジ)の家族が暮らした街。わたしが今いるこの街。『ろじ式』の“路地”、中上健次の“路地”。『レミング』の母親。“泥の河”ってああそうか、この川(安治川)は宮本輝のあの河なのか。『小指の思い出』の走る少年たち、繰り返される言葉と動作。開演前に見掛けた、『小指〜』に出演していた山中崇さん。水都大阪、その歴史、その地形。目の前に繰り広げられると音と光景から、さまざまな記憶が引き出される。パレードのように彼らは観客の前を通り過ぎていく。

途中ガタロは男に刺される。ガタロはなんともないように起き上がる。ヒツジとの対話は続き、さっきの出来事は幻だったのだろうと思う。現代の大阪…都会ではそういうことが起こっているのだろう、これはガタロのデモンストレーションなのだろうと。いくつかのシーンの後、テレビの医療ドラマからサンプリングしたかのような音声が差し込まれたときも、その意味に気付くことが出来なかった。しばらくしてもう一度、その続きの音声が聴こえてくる。そのとき初めて、ガタロが当事者であったことが判る。「誰でもよかった」は今ではよく聴く台詞だが、前日まさに犯人がそう言った事件が起こっていた。寒さだけでなく、指先が冷たくなる。水の匂いが強くなっていることに気付く。大阪湾の潮位と関係あるのか? と思った瞬間、背後から大きな音がする。16面の正方形に分割された舞台の間に、大量の水が流れ込む。都市開発により隠された水路が、地上に戻って来たかのように。時折鳴っていた時報がまた聴こえてくる。終演が近付いている。

ヒツジとガタロは離れた舞台にいる。少年少女たちは助走を付けてジャンプする、水を越えて走って行く。水位はみるみる高くなる。ふたりは彼岸と此岸で離ればなれになってしまったかのように見える。しかしやがて彼らは舞台を降り、少女、男、女、少年たちとともに飛沫を上げて水を走る。

川を見つけて 川べり歩こ
川を見つけて 川と走ろ
川べり歩こ  川べり走ろ
海まで行こう 海まで走ろ

現在に生きるものが描く時間と土地の透視図は、二時間で消える。彼らの背後にはビル街の夜景。寒さだけでなく、身体が震える。寒さだけでなく、涙が溢れる。彼らを見送り、拍手を送る。


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10月17日(金)
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