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I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
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■『国民の映画』
『国民の映画』@PARCO劇場
再演。初演は三年前の3月12日に観た(その日の感想はこちら)。今読み返してみると、務めて落ち着いて観ようとしている意識…と言うか意地がありありですな。
今回、三谷さん言うところの「ちゃんときちんとした形で、平常な状態で」観ることが出来た。平常の状態で観て、作品に対する印象は変わらなかった。あの日を境にこの国で起こっていることについて、時代と照らし合わせて観ることも出来た。そしてそれが、より身近に感じられたことがとても恐ろしかった。改めて、傑作だと思う。
とは言うものの、見逃し、聞き逃している箇所があることにも気が付いた。集中力はあったと思うが、それでも余震があったとき等は注意が逸れていたのだろうなあ。それは普段の観劇と同じと言えば同じだが。と言う訳で、新たに気付いたことを中心に。
台詞の端々に、その後を生きる者でなければ気付かないことが織り込まれている。些細な言葉だが、それにはいろんな意味がある。ドイツ国家の繁栄について、レニが「少なくとも私が生きている間は変わることがない」と言う。彼女は2003年、101歳の生涯を閉じる。「こんな時代にはコメディがいちばんだ」と言うゲッベルス。農薬に詳しいヒムラー。いちばんはっとしたのは、ゲーリングの「芸術を愛する権利を持たない者はいない。しかし、芸術は決して罪深き人を愛しはしない」と言う台詞だ(記憶で書いているので正確ではないですがこういったニュアンス)。ゲッベルスがどんなに映画を愛していても、映画は決して彼に愛情を向けることがない。映画への愛を語るゲッベルスの言葉に、客人たちは感銘を受ける。その後それらはゲーリングやフリッツの受け売りであることが明かされる。ゲッベルスに映画を語る才能がないことが残酷にも露になっていくが、彼には演説の才能はあったのではないか。三谷さんが「持たざる者」へ突きつける現実はいつも容赦がないが、同時にその人物に注がれる視線はあくまでも優しい。その優しい視線は、ゲーリングが体現していたように思う。再演から加わった渡辺徹さんは、愛嬌ある容貌と台詞まわしで、持たざる者である息子を憐れむ父のようなゲーリングを演じていた。
エルザもやはり「持たざる者」だ。彼女の焦燥を、同じく再演から参加の秋元才加さんは確実に表現。時折見せる粗野なふるまいは、小悪魔的なかわいらしさすら感じさせた。
そして終盤マグダが口にする、非常に重く恐ろしいひとこと。初演でエルザを演じた吉田羊さんが今回マグダを演じている。彼女が冷たく言い放ったこの言葉は、何も疑いなくそうであると育ってきてしまったマグダの背景を感じさせた。同じ作品の再演で違う役を演じるのはとても大変だったと思うが、彼女のマグダはこの台詞の恐ろしさを多層的にした。ここで気付いたのはツァラのことで、フリッツがユダヤ人だと発覚したのは彼女の「やっぱり執事はユダヤ人がいちばんね」と言うひとことからだ。悪意はない。彼女は民族の資質としての向き不向きから(例えば日本人は繊細な仕事が出来るイメージと言ったような)、フリッツの仕事ぶりを賞賛する意味で言った可能性も決して否定出来ない。どちらが罪深いのだろうと考えてしまう。
ここで、初演後から始まったある動きのことを考える。身近なことだ。ウチの隣町でヘイトスピーチに興ずるひとたちとそのカウンターは、住人からすればどちらもいやがらせにしか感じない。時間が過ぎるのをひたすら待つか、そっとその場を離れるかしかない。隣町で自分が接するのは明るく暖かく、気のいいひとたちだ。ごはんもおいしい。二十年以上住んでいるが、こんな状態になるのは知る限り初めてのことだ。レニの言葉が違う意味を持って思い出される。「自分が生きている間は変わることがない」のか?
映画への造詣深く、仕事を確実にこなす愛すべきフリッツ。彼個人の資質は、時代の流れのなかでは何の意味も持たなかった。自分がフリッツ側の人間になる(される)可能性を、この作品の登場人物たちはひとりとして露程も思っていないだろう。その根拠はどこにあるのだろう。
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02月22日(土)
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