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I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
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■『ホーリー・モーターズ』
『ホーリー・モーターズ』@シネマカリテ スクリーン2
非常にレオス・カラックス監督自身のパーソナルな側面が表れているにも関わらず、そういうところこそに普遍を感じ、人生というものに思いを馳せる。誰かの人生を生きる仕事。誰かって?それが他人だと言い切れる?自分ではない誰かだと言い切れる?父親に嘘をついた女の子はこう言い渡される。「おまえが受ける罰は、おまえがおまえとして生き続けることだ」。自分が自分でしかないことの苦痛、演じるという行為の美しさ、映画のなかに生きる、痛みを持ち演じ続ける者たちの美しさ。
カラックス本人がベッドで目覚める、傍らにはテオそっくりのいぬがまるくなっている。テオは死んでしまったカラックスのいぬだが、映画のなかでは生きている。クラシカルな映画館、顔の見えない多くの観客。その古びた映画館の通路を、ちいさなこどもが危なっかしく歩いていく。そしてドニ・ラヴァン演じるオスカーが登場する。オスカーは11のキャラクターを演じる。アポが沢山入っている。リムジンのなかでメイクを変え、衣裳を替え、台詞を覚える。準備を終え、パリのあらゆる場所に降り立ち職務をこなす。「メルド」という呟きにニヤリ、ミシェル・ピコリの登場に胸を熱くする。やがてオスカーは、かつてポンヌフでともに暮らしていた(のであろう)ジーンと再会する。彼女はリムジンに乗っている。オスカーと同業者のようだ。サマリテーヌ百貨店は廃墟になっている。ジーンを演じる小柄で華奢なカイリー・ミノーグに、ふとジュリエット・ビノシュの姿を思い出す。フィクションと理解し乍らも、ドキュメントを観ているような気分になる。
ときどきシリアス、ときどきマヌケ。ときに泣き叫び、ときに心の底から笑う。疲れ果て家に戻り、家族という役を演じることで一日を終える。リムジンは車庫へ戻り、運転手を演じていたセリーヌも違うキャラクターの仮面を被り家路につく。
ずっと誰かを演じている彼らだが、演じることから解放されるひとときがある。笑うことにさえ時間制限があり、そこに心が着いてくるか不安を感じていたオスカーとセリーヌに、鳩と言うハプニングが現れる。彼らはそこで心の底から笑う。セリーヌの笑顔に魅了される。こういう瞬間があるから、人間は生きていけるのだ。何度も死ぬキャラクター。かつての恋人も百貨店から飛び降りる。その姿を見て慟哭しても、違う世界でまた彼女は生きているのだと心のどこかで思うことが出来る。それは安息でもあり、新しい疲労をまた肌にまとうことでもある。そしてそれらには音楽が寄り添う。今思い返してみれば使用曲の数は少なく、単なるBGMとしての使われ方はしていない。父娘の乗ったカーラジオから流れてくる曲、インターミッションでオスカーが音楽隊を引き連れて演奏する曲、ジーンが百貨店で唄う曲。どれもが心に残る、印象的な、映画の、人生のサウンドトラックだ。
SFのフォーマットをとり、カラックスは過去の自分の作品、そして個人史を辿る。短期間で撮ったと言うが、撮影に入る迄の準備をしっかりしている印象がある。衣裳、メイクは勿論、セックスシーンもダンスのように緻密な振付が施されている。ラヴァンの身体能力を堪能。よく知られていることだが、カラックスの作品に登場する「アレックス」はカラックスの本名だ。今回の「オスカー」も同様。ラヴァンはカラックスの分身を演じる。冒頭のシーンで森のような模様の壁紙をつたって歩いていたカラックスに、オスカーの呟き「森が恋しい」が繋がる。その森とは、ピエールが暮らしたノルマンディの森なのだろうか?ラヴァンが不在だった『ポーラX』の森。カラックスもラヴァンも50歳を超えた。彼らの人生の先輩とも言える、セリーヌを演じるエディット・スコブはある種の信頼感を与えてくれる。棺桶のようなリムジン、演じたキャラクターを弔い、再び新しいキャラクターに生まれ変わるためのリムジン。それを運転するセリーヌという女性の颯爽とした美しさ。ここにも行為の美しさがある。
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04月27日(土)
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