ID:43818
I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
[648631hit]

■『一丁目ぞめき』
THE SHAMPOO HAT『一丁目ぞめき』@ザ・スズナリ

「ぞめき」は「騒き」と書き、「浮かれさわぐ。遊郭や夜店などを、ぞろぞろさわぎながら歩く。また、ひやかして歩く。」の意味だそうです。古典落語に『二階ぞめき』と言う演目があり、それも頭にあったと赤堀さん。入場すると聴こえてくるのはおまつりのような笛や太鼓の調べ、そしてロビーから劇場へと入った途端、袴田長武さんによる舞台美術にグッとくる。これは久々のワンシチュエーションだな。具象でガッチリ作り込まれた、とある家庭の食卓と台所。開演迄の数分間、眺めるだけで想像が拡がる。とても豊かな時間を持てた。

食卓には幼児用のちいさな椅子。壁にはたどたどしくもかわいらしい、クレヨンで描かれた絵が何枚も張ってある。キャラクターが描かれた小物も置かれている。ちいさなこどもがいる家なんだな、きっとひとりではないな。ふたりかな。男の子と女の子かな、どっちが上かな。冷蔵庫にはシールやちらしが貼付けてある。流しも綺麗にしてある。家事をきちんとしている家だ。使い込まれた、新しくはない家だが、荒んだ様子は見えない。ここには慎ましく暮らしている幸せそうな家族がいるのだろうと思えるが、きっとなにかがあるのだろう。どこにでもあるような、しかしその家にしかない傷や歪みが。

そして暗転、雨の音。明るくなるそれは部屋の蛍光灯。瞬時に状況そのものに闇が感じられ、あっと言う間に作品世界につれていかれる。見事。そして運良く?この日は雨だったのです。下北沢の駅から劇場迄歩く数分感が、劇中の登場人物がこの家へと向かう数分感と重なった。例えばこの雨はいつ止むのだろうか、明日は晴れるのかなといった気持ち、例えば雨がしみ込んできそうな靴の不快さ。以下ネタバレあります。

青と黄色が滲んだような、暗い灯りの部屋に入ってくるのは喪服の男たち。どうやらこの家の誰かが亡くなったらしい。不在の人間、残された者たちの右往左往は赤堀さんの作品によく出てくるシチュエーション。半分以上…いやもっとか、会話の殆どは雑談。そして雑談の内容は、宣美のコメントや劇中の台詞でも言われるように「うんことちんことまんこの話」。しかしその会話から、この家で何が起こったか、久し振りに家に帰ってきたらしい兄がこの街でかつてどういう人物だったか、家を継いだ弟の不器用さ、この街で育ちこの街で働く近所の幼なじみたちのあれこれが見えてくる。

説明的な台詞を使わず、会話の積み重ねで全体像を浮かび上がらせる赤堀さんの筆にはいつも唸らされる。稽古の反映もあるのかも知れないが、それにしてもこのイライラが少しずつ少しずつ募り、爆発寸前の緊張感を持続させる会話を書くその執拗さには恐れ入る。同時多発会話も頻発するが、観客の耳がどちらかに向くよう緻密な演出が行き渡っている。それぞれの思いを吐露する場面もあるが、それは当事者には伝わらないもどかしさ。観客は「ああ、この言葉を彼が聴いていれば、お互いの関係が少しはいい方へ向かうかもしれないのに」とやきもきしつつ、それが叶えられないことを悲しく思う。

だが、そんな第三者の余計な詮索は、最後に頭を殴られるような形で霧散する。そんなこと直接言えるかよ、家族に。幼なじみに。逃げても逃げても関係は断ち切れない。嫌で嫌で、憎らしくて、照れてしまって、恥ずかしくて、だからパンツを脱いでうんこを投げてしまう。そんなシャイの裏返し。いがみあって、憎み合って、それでもお互いにしか解らない関係がある。それを知りもしない奴が余計な口を出すな。離婚しようと言った夫婦、不倫している幼なじみ、絶縁状態の兄弟が、なんとはなしに元の鞘に収まる。問題は何も解決しないが、それでも日々前に進む。「各々で呑み込んでくれよ」と言う台詞が、ほんの少しのヒントをくれる。こんな関係でも、いや、こんな関係こそが「絆」を感じさせる。

通夜が行われている居間に集うひとたち、階上の部屋にいる娘、襖一枚隔てた向こう側で寝ている母。見せないからこその饒舌な演出は豊潤ですらありました。観る側に想像力を喚起させると言うことは、投げっぱなしにすることとは違う。それだけの場を提供すると言うことなのだ。


[5]続きを読む

03月23日(金)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る