ID:43818
I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
[649447hit]
■『3人いる!』、『墨・彩』、motk
『3人いる!』@リトルモア地下
役者3人、登場人物約9人。役者名=役名×3。
上演中は空調が止まります。暑くなるのでご注意を。
旧知の友人に、「明日お昼に海岸で待ち合わせね」と置き去りにされたような60分。お昼って何時?海岸のどこらへん?しかし当日になると、何故か会える。
演劇における想像力を逆手にとった作品です。確かにこの脚本(多田淳之介@東京デスロック)はすごい。そして飴屋さんの演出って何がすごいか説明出来ないけれど、どうしてすごいのかのヒントがちょっと見付かったような気もします。自分が自分であることを証明し得ない不安定さ、それを自覚すること。自己からの乖離と他者への同一視の往復。
必見。あとで書き足します。
-----
この日の出演者は(登場順)桜木彩佳、上村梓、立川貴一。全員1986年生。
桜木(桜木)が自室で電話をかけている。そこへ桜木(上村)が帰宅してくる。ふたりとも驚き、どちらが本物の桜木か言い争いになっているところに桜木(立川)がやってくる。
演劇には、演者と観客との間に暗黙の了解=共犯関係がある。舞台設定はここ、この登場人物の性別はこうで、年齢はこのくらい。どういう状況にいる。これらを想像力で補完する。例えばセットが何もなくても音響でさざ波が聴こえてくれば「ああ、ここは海辺なんだ」、蝉の羽音が聴こえれば「季節は夏だな」、照明がオレンジ色だったら「夕刻だな」、と言う感じ。これはいちいち意識するものでもない。
桜木が2人になった時点で、観ている側は「ああ、これはどちらかが偽物であるミステリ的な展開、あるいは個人の区別がつかなくなっていくSFのような設定だな」と了解し、それをこの作品を観るにあたってのルールと想像する。しかし実際に目の前で起こることは、その想像を悉く潰していく。桜木が2人の時点では「桜木は女性。演じているのは女性2人」。まず個人の識別感覚を奪われる。立川演じる桜木が入ってくると「最後に入って来た人物は男性だけど、女性である桜木を演じているんだな」。ここで性別の識別方法がなくなる。この時点では、登場人物はひとり、演者は3人。
混乱した3人は、最初の桜木が電話で話していた上村の家へ行くことにする。その間上村演じる桜木は舞台上でメイクを落とし(役が入れ替わると言うことより、自宅にいる=お出かけメイクを落とすことに比重が置かれているようではあるが、これもひとつのフックだろう)自宅の部屋にいる上村になる。そこへ桜木演じる上村がやってくる。そして立川演じる上村も入ってくる。この時点で登場人物ふたり、演者は3人。そのうち桜木の元カレ立川の情報が台詞に入ってくると、立川は立川役になる。この時点で登場人物3人、演者は3人。
ところがそれでは治まらない。立川は立川と上村を演じ始め、台詞の応酬のうちにそこには桜木も同居していることに気付かされる。それは上村も桜木も同様で、最後には3人で9人分の役を演じることになる。立川は「貴一は俺でしょ?」と自分を指差し、「梓はあんたでしょ?」と自分を指差す。桜木は上村を「梓でしょ?」と指差し、「梓梓」と自分を指差す。
ルージュで壁や顔に落書きしたり、出血する(流石にこれは血のりだが)シークエンスがある。顔を識別し個人を特定する視覚と、声で個人を識別する聴覚が無効になっているので、信じられる肉体を使った感覚が触覚に限られてくることを表現しているのかも知れない。勿論それも曖昧になっていくのだが。
驚くのは、これだけ“鑑賞する方法”を奪われ続けても、観ている側の想像力が尽きないこと。誰が誰を演じているか判らなくなることがないのだ。ん、ちょっと違うか。誰が誰であることを際限なく許容し続けられると言えばいいか。“観られる”し、“楽しめる”。自分に限ったことではない。人間そのものの力だ。そしてこれは60分の上演時間が上限だろうとも思わされた。45分くらいでもいいのかも。肉体的疲労が集中力を奪っていくので、観る側が舞台上で起こることに「ノレる」状態であり続けるには限界がある。ここには人間の想像力は無限にあり乍ら、身体(これには肉体としての脳味噌も含まれる)から離れられないと言う絶対的なルールがある。
[5]続きを読む
08月01日(土)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る