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西方見聞録
by マルコ
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■奔流の漏れいずる穴〜書評ホワイトネイション(2)
で、まず
1)<邪悪なナショナリスト>編。
ここではイスラム女性のスカーフを剥ぎ取るという<レイシズムの実践>への考察から話が始まる。
豊富な「レイシズム的傾向をに抱えている人々」へのインタビューから彼らが「第3世界風」オーストラリア人に対し、「数が多すぎる」「自分の国へ帰るべきだ」といった分類を行っていることが浮き上がる(P.78)。そして「(ここを)昔みたいに戻す」という願望が何回もインタビューのダイアローグからたちあらわれる。
そこにはそうした人々がエスニックな他者を自分が思い通りに扱える客体として捉え、自己をナショナルな空間の管理者として認識し、「数を数えて、多すぎる分を他者の祖国に送り返し、オーストラリアを昔にもどすことが出来る」権力がある、と仮定している姿が伺える。こうした幻想の権力が「統治的帰属」(P.91)から派生するとハージは言う。統治的帰属とはつまり、「『自分の故郷=祖国』を存続させるために自分にはネイションの管理に貢献する権利があるのだ、という信念」(P.91)とハージは説明する。
ハージこの「統治的帰属」をブリュデューの「権力場」の概念を用いて説明する。決して「主体的な白人オーストラリア人」と「客体として扱われがちな非白人オーストラリア人」の間に明確な線引きがあるわけでなく「『白人性』は常に変化する文化的・歴史的構築物」(P116)である、という。「男性であること」「英国系・アイルランド系の子孫」「キリスト教徒」「経済的資本」「オージーっぽい発音」(P.112)とかさまざまなナショナルな資本を蓄積する場として「権力場」がある。このナショナルな資本をより多く蓄積することで、持っている資本がより少ない他者に対して権力を行使できるというファンタジーが成立する場である。
統治的帰属を主張する人々が夢想する<あるべき祖国=幻想の白人の国(ホワイトファンタジー)>は「生活に充実と活力を与えるもの」として構築される。ナショナリストはそうした彼らが「充足する幻のネイションを他者に盗まれるのではないかと継続的に憂慮する」P.140)。
実生活に充足と活力を見出せない者が強烈に幻のネイションを追い求める。
「社会生活の他の領域で充たされてないと感じている人々が、もっとも騒がしいナショナリストである場合が多い(略)。ナショナリズムが人生の目的や可能性の感覚を与える手段となるのは、社会生活の他のどんな分野もそのような人生の目的を提供してくれないときである。」(P.138)
イスラム教徒の女性のスカーフを剥ぎ取るというレイシズムの実践をなした加害者女性へのインタビューをハージは掲載する。被害者はイスラム教徒のレバノン系オーストラリア人で加害者はキリスト教徒のレバノン系オーストラリア人だった(これ以外にもたくさんのこの種のレイシスト的犯罪は起こっているが、ハージがインタビューできたのは彼女だけだった)。加害者は彼女のキリスト教信仰が他のイスラム教徒に比べてより統治的なオーストラリア性への転換が可能であるという信念のもと、他者を客体化し、スカーフを剥ぎ取るというレイシスト的実践を行ったのだ。
自分の統治的権力に不安を抱く人々がよりナショナルな資本を持たない人々を攻撃することで自らのネイションへの統治的帰属感を誇示し実感する。ハージが「邪悪なナショナリスト」と定義付けする人々のレイシズムの実践はこうした構造を伴っているのである。
私の愛読しているFeliceさん日記にこの構造をよく体現したケースが紹介されていた。
ホテルルワンダを見て。
「若い女は優遇されてるとかいうけど、やっぱ、か弱い立場なんだと思う今日このごろ。」と自らを規定している彼女がホテルルワンダのプログラムの町山智弘氏の所収文書 を読んで逆上する。(町山氏は「ホテルルワンダ」の日本公開に尽力したカルフォルニア在住の映画評論家)
町山氏は隣人を虐殺する事例として関東大震災時の朝鮮人虐殺の例を引き、ルワンダの大虐殺は遠いアフリカでの事件でなく、どこにでもその種をはらんだ事件なのだと述べる。公平に読んでとても理解しやすい的を得た「例え」だと思う。
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03月04日(土)
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