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西方見聞録
by マルコ
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■奥の細道から聞こえるシャウト報告
以上のように法隆寺は奈良盆地の広い範囲から見えるのに対して、飛鳥寺を見ることができるのは法隆寺周辺の奈良盆地北西部に限られることがわかった。この結果はあくまで地形に基づいた潜在的に見える範囲を示すにとどまるが、法隆寺創建当時は、高層の建造物がほとんどなかったであろうから、創建当時はここに示した地図に近い範囲で見えていたと考えられる。そうであれば、聖徳太子は法隆寺創建前より飛鳥から法隆寺周辺を見てお過しになったであろうし、また、法隆寺創建以降は、法隆寺を見ながら太子道をとおって飛鳥と斑鳩を往来しておられたのではないだろうか。
(初出:『聖徳』184号 聖徳宗教学部発行 2005年、5月)
、、、とまあ、こんな感じの論考です。
本人はあんまり踏み込んでいませんが、何で聖徳太子が斑鳩を自分の宮に選んだかというと、これまでは難波津への交通の要衝だから、って説明がほとんどだったんだけど、あめでお論考をあわせて考えれば、斑鳩に引っ込んでても、飛鳥からばっちり見えるので「飛鳥朝廷へのプレゼンスを失わない」ってのも大きな理由だったかもしれませんな。(付記:斑鳩(聖徳太子の住居)と飛鳥(職場の飛鳥朝廷があった場所、飛鳥寺のあたり)はかなり距離的に離れており、聖徳太子は遠距離通勤者だったんですわ。この辺には『太子道』といって、聖徳太子が飛鳥まで馬で通った道があり、毎年11月23日には「太子道を歩く集い」ってのが法隆寺主催であります。いつか参加してレポートを書きたいものじゃ。)ちなみにこのあと、聖徳太子の息子の山背大兄皇子の時代、上宮王家(聖徳太子の一家)は政権の主流から外れ、蘇我氏によって斑鳩の宮は焼かれて一族殲滅されてしまうんですが、斑鳩の宮に引きこもってると飛鳥からばっちり絢爛豪華な斑鳩宮&法隆寺が見えちゃって時の権力者はおちおち寝てられなかったのでがつんとやられちゃったのかしら。とか時代ミステリー的想像力が喚起されます。
あめでおさんももちろんその辺は考えたらしいんですが「科学が立証できるところまで明確にするのが私の仕事なので」ということで想像の世界は黒岩重吾におまかせするそうです。
06月21日(火)
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