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江草 乗の言いたい放題
by 江草 乗
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■冤罪が怖くて死刑を廃止せよという馬鹿へ
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 死刑を廃止することを主張する人たちがいる。生命の尊厳を叫びながらその一方で国家が生命を奪うということの矛盾を主張するのならオレにも納得がいくし、少なくとも海外での「死刑廃止」という流れはそうした方向から来ている。あらゆる人命を尊重しなければならないという立場からの死刑廃止である。無差別大量殺人を行った人間であったとしても、その命は奪われるべきではないというのである。

 そもそも死刑は厳密な意味で刑罰ではない。すべての懲役刑と死刑との間には大きな落差がある。刑罰というのは教育や矯正の意味があるが、死刑は単なる「応報刑」である。明治維新の頃に「仇討ち」が禁止され、個人が行っていた加害者への復讐を国家が代行するようになったのが日本に於ける現在の「死刑」と考えることができるのだ。

 だから少なくとも「死刑廃止」の議論というのは、死刑という応報刑が現在の社会情勢や価値観と照らし合わせてどうなのかというところからスタートするべきである。

 しかし、死刑廃止論を唱える人の中には「冤罪による死刑執行を阻止するため」とまじめに主張している馬鹿もいる。オレはそういう馬鹿に対してはつくづくあきれてしまうのである。「冤罪をなくすこと」と「死刑廃止」というのは全く別の問題であり、冤罪をなくすためには今の刑事事件の捜査のあり方や裁判の手続きを変えていく必要がある。そのためにはたいへんな労力が必要だ。日本中の検察や警察、司法関係者の価値観を根底から変える必要があるからだ。そうした困難な問題をすっ飛ばして「死刑にさえならなかったら冤罪もOK」(もちろんはっきりとそう主張はしていないが結果的にはそうなる)というのが「冤罪による死刑廃止の阻止」論者の立場である。

 冤罪を生み出す構造を放置したまま死刑だけを単に廃止しても、それは「冤罪で死刑」が「冤罪で無期懲役」に変わるだけのことである。そもそも死刑になるような凶悪事件の真実というのは「有罪」「無罪」のいずれかしかないわけで、やったかやってないかというただそれだけの単純な問題である。裁判官はその被告が本当に犯人か、そうではないかを与えられた材料から判定するわけだ。「疑わしきは罰せず」が最優先するルールであり、犯人かも知れないと思っても確たる証拠がなければそれは無罪にするしかないのである。ところが日本の司法制度の欠陥は、そういう場合は「無期懲役」でお茶を濁すのである。ロス疑惑の三浦被告が死刑を求刑されながら無期懲役の判決を受けたのはその一例である。死刑にするだけの確たる証拠がなかったので無期懲役にしたのだ。(もっともオレは三浦被告をクロだと思っているが)

 もしも今死刑を廃止してしまうならば、おそらく冤罪事件というのは飛躍的に増えるだろう。なぜか。再審制度などの手続きがあるという逃げ道があるために、あいまいなものはすべて「有罪か無罪か」という判定を厳密に行わずに「とりあえず無期懲役」という形で決着を先送りしてしまうのである。

 冤罪による死刑執行はあってはならないことである。しかし、その可能性は否定できない。それは司法制度の持つ宿命的なものである。人が人を裁く以上、100%正しいものなどありえないとオレは思うからだ。冤罪の人を死刑執行してしまうと取り返しがつかないというのはもちろんそうなんだが、だったら無期懲役なら取り返しがつくのか、有期刑なら取り返しがつくのかというと、失われた時間はそもそも取り返しがつかないのであり、冤罪による被害の可能性はあらゆる刑事裁判の事例の中に存在する。冤罪を100%なくす方法というのは刑事裁判を行わないことしかないのである。

 我々の社会はリスクとベネフィットで構成されている。飛行機は墜落するという危険(リスク)があるが、そのもたらす利便性(ベネフィット)は計り知れないわけで、だから我々の社会は飛行機を受け入れているのである。交通事故というリスクはあっても、自動車は手放せないのも同様だ。司法制度もそうで、罪なき人が有罪とされてしまうリスクはあるが、罪を犯した人をきちっと罰する必要があるから今のシステムが有効に機能しているのである。


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07月31日(火)
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