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江草 乗の言いたい放題
by 江草 乗
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■あれから12年〜失われたものは何か
1995年1月17日未明に阪神淡路地方を襲ったあの大震災から12年が過ぎた。激しい揺れに目を覚ましたオレは、ふとんの中で妻と抱き合って揺れがおさまるのを待っていた。ただ怖かった。そのまま家が押しつぶされて死ぬような気がした。そのまま死ぬのなら一緒に死にたいと強く妻を抱きしめてた。ふすまを隔てた隣りの部屋ではベビーベッドに長男が寝ていた。そこに母親が飛び込んできた。母は孫がとにかく心配だったのだ。「あんたら子どもほっといて何してんの!」と母は怒鳴った。あの激しい揺れの中では息子のことを気にする余裕などなかった。ただ自分のことしか考えられなかったのだ。
その同じ瞬間に神戸では多くの家屋が倒壊し、多数の人がその下敷きになって死んでいたとは想像もつかなかった。とにかく今までに体験したことのない大きな地震であることはわかった。激しく揺れはしたものの家にたいした被害はなかった。棚の上のものが落下したり本棚が崩れた程度である。オレはとりあえず出勤することにしてクルマで家を出た。ラジオでは道上洋三が震災の様子を伝えていた。職場につくとすぐにテレビをつけた。震源が神戸でかなりの被害が出ているらしいということがわかった。テレビには黒煙をあげて燃える街が映った。オレが勤務する学園は臨時休校となり、登校してきた生徒は門のところにある掲示をみて引き返した。揺れていた時間はわずか1分ほどだったという。しかしオレにはその時間が耐え難いほど長く感じられたのだ。いったいいつまでこの揺れは続くのかと絶望的な気持ちで怯えていたのである。オレは今でもはっきりとあの日のことを思い出すことができる。
スイスの救助犬よりも遅く視察に来た村山富市。交通が寸断されて街は大混乱してるのに、いつものようにお迎えの公用車を待っていた貝原兵庫県知事。震災に関して腹の立つことはいくらでもある。しかし、もっともオレが許せないのは神戸市のやり方だ。神戸市は震災で瓦礫の山になった街をこれ幸いと再開発してしまい、整然と区画整理された無機質な街に作り替えようとした。オレはそれを「震災地上げ」と呼びたい。もっとも被害が大きかったと言われる長田地区では、自宅を再建する努力をするよりも目の前のゼニをもらって街を去っていく人たちの方が多かった。町工場が建ち並び、ごちゃごちゃしているが活気があって人々の暮らしが息づくあの庶民の街はもう存在しない。神戸市のやったことは人々に「元の暮らしを取り戻させる」ことではなく、震災復興の名目で多くの公共事業を呼び込んで「利権あさり」をすることだった。それは見事に成功し、かつての町並みの多くが消えた。そして去っていった人々の多くはもう二度と住み慣れた街には戻ってこなかった。これはいったい誰のせいなんだ。
田中康夫の著書「神戸震災日記」では、スクーターで被災地を回りながら救援物資を配った田中氏の奮闘が克明に描かれる。彼が後に政治の道を志して長野県知事に立候補することになった背景にこの日々があったことは間違いない。その政治的手法よりもむしろオレは彼の行動力を評価する。まず行動すること、それこそが我が国の政治家に最も欠けていることではないのか。
震災による破壊は単に物質的な破壊だけだった。しかし行政による破壊はその後ずっと現在に至るまで継続し、将来にわたって住民にダメージを与え続けることになるだろう。膨れあがった天文学的な借金をいったい誰が返すのか。大阪市や大阪府と並んで、神戸市も実は破産自治体予備軍なのである。
「そこにもともと存在したものをできるだけ変えないように再建する」
ナチスドイツによって徹底的に破壊されたポーランドのワルシャワやグダニスクの街並みは、壁のひびに至るまで元通りに再建されたという。もしもこんな殊勝なことを神戸市長や兵庫県知事が考えていたら、震災後の街は全く違った歩み方になっただろう。残念ながら今の日本の首長で土建屋的発想から逃れて理想を語れる人など一人もいない。当選したときは改革派知事と呼ばれていても、いつのまにか談合の元締めになっていたりするのである。権力が腐敗するものなのか、あるいはもともとゼニが欲しかったから権力を手に入れたのはわからない。
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01月17日(水)
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