ID:41506
江草 乗の言いたい放題
by 江草 乗
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■八大竜王雨やめたまへ
 単なるお飾りの将軍であり、政治の実権から遠い所にあった実朝にとってこんな和歌で後鳥羽院への忠誠を誓うことは無意味なことである。風雅を愛し、和歌を愛した彼に二心がなかったことは明らかだ。ただ、北条義時や鎌倉の御家人たちには二心があったかも知れないが。自分の心情と最もかけはなれた和歌を最後に提示したのは、その対極に実朝の心情が存在したからに他ならない。こうして単なる形式的作歌者に堕した彼は歌を捨てた。

 実朝はこの和歌を最後に、秘められた自分の心情を語ることなく封じ込め、22歳以降、歌作をふっつりとやめてしまったようである。その後の実朝作になる和歌は散佚したのか存在しないのか、伝わっていない。彼はそれから悲劇に至るまでの6年間の日々、何を感じ、何を見つめていたのだろうか。

 実朝が、鶴岡八幡宮で甥の公暁に暗殺され28歳で生涯を閉じたのは、承久元年(1219年)正月27日のことであった。拝賀の儀式を終えた実朝一行が石段を下りかけたとき、石段の脇の大銀杏の陰から飛び出した暗殺者は、「親の仇はかく討つぞ」と叫んで実朝の首を斬り落とし、つづいて後ろにいた源仲章をも斬り殺して、実朝の首を持って闇の中に姿を消した。御剣の役を北条義時に替わって勤めた源仲章は巻き添えを食って間違って殺された。あるいは事前に暗殺の謀議を知った義時によって身代わりにされてしまったのかも知れない。

「吾妻鏡」には、実朝の辞世の和歌として、次の作品が紹介される。

 出でていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな
(私が出ていってしまったら、主人のいない家となってしまうとしても、軒端の梅の花よ。春になったら美しく咲くのを忘れるなよ。)

 天賦の才を持つ歌人であった実朝がまるで菅原道真の二番煎じのような凡庸な和歌を作るわけがないし、そもそも実朝は22歳以降和歌を作るのをふっつりとやめてしまっていたはずである。北条義時がこの暗殺を事前に察知していたことは間違いない。そこで殺される予定になっていたことを知らなかったのはおそらく当の実朝一人であったかも知れない。そんな不慮の死に対してわざわざ死を予感した辞世の和歌まででっちあげた吾妻鏡の編者の意図はわからない。事件の翌日に百余人の御家人が揃って出家したという。彼等の出家の理由は同じ罪悪感の共有だ。あの日の鶴岡八幡宮で実朝が殺されることを多くの御家人がすでに知っていた。みんな実朝暗殺の共犯者だったのである。

 オレが知りたかったのは、一人の天才歌人がどのような想いで22歳の時にその天賦の才能を封印し、暗殺されるまでの日々を過ごしたかである。表現者としての実朝が唯一の表現方法である「歌作」という手段を放棄した以上、その心情の手がかりとなるものは何も残されていない。残された日記などもない。「吾妻鏡」のような「意図を持って書かれた歴史書」の内容にはかなりの創作が存在するだろう。想像することは可能だが、天才の心は天才にしかわからない。実朝に比べてはるかに凡庸なオレは、残された彼の和歌を読みながらただ想像することしかできない。

(2006年の長雨の時に書いた文章をもう一度使いました。)



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07月06日(金)
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