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江草 乗の言いたい放題
by 江草 乗
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■夏休みの宿題私論
 学びというのは本来娯楽なのである。知識を得ることは快楽なのだ。数学で難しい問題を解けたときの快感、難しい英文を読み通して意味が理解できた時に得られる達成感、それらを通じて我々は学ぶことの本質に近づくのである。しかし、学びの本質を伝えることのできる教師が今の教育現場にいったいどれだけいるのだろうか。

 ドラマ「八重の桜」の中で、聖書を学ぶ八重は多くの疑問を抱く。なぜ右の頬を打たれれば左の頬も差し出さないといけないのか。なぜ敵を憎んではならないのか。会津の価値観から見ればそれはただの弱虫か臆病者である。会津戦争で父や弟、多くの友人を殺された八重にすれば、長州や薩摩の人間は仇敵である。八重の兄である山本覚馬は、八重にキリスト教を学ばせることでその恩讐を超えさせたかったのかも知れない。抱いた疑問は必死で考えることでしか解決できない。誰かが答えを提示してくれるのを待っていてはダメである。答えには自ら努力して到達するしかないのだ。

 オレは宿題が嫌いだ。長い休暇があって、そこで何を勉強するかは生徒が自分で決めることだと思うのである。生徒が自分で見つけるべき目標をあれこれ押しつけたくないのである。しかしオレは教師として宿題を出さないわけにはいかないのである。全く宿題を出さないと「生徒を放置してる」という批判を浴びてしまうのだ。そこで悩んでしまうのである。どうすればその宿題が自主的な生徒の学びにもつながる宿題であるのか。そんな不可能な理想を思い描いてしまうのだ。

 オレは願う。どうか日本中の教師がオレと同じような疑問を感じてもらいたいのである。今自分が教師として出しているその宿題が、生徒の学びにとって本質的にどのように関わることのできるものであるか、それをこそ意識して欲しいのだ。そして決して生徒の学ぶ活力を失わせるような「コピペ」を宿題になどしないでくれと思うのである。何かを書かせるならば、それは心を込めて一文字一文字を書かせるような、そんな課題であって欲しい。そのように願うのである。
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08月26日(月)
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