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江草 乗の言いたい放題
by 江草 乗
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■戦争論〜 なぜ殺人が合法なのか
戦争の初期、昭和17年2月28日のスラバヤ沖海戦において、駆逐艦「雷」の工藤俊作艦長は乗艦が撃沈されて海上を漂流していた422名の英国人兵士を救助した。自分たちの食料を分け与え、負傷した者には手当を行ったのである。これは世界の海戦史上きわめて希な出来事なのである。漂流している敵兵に対して容赦なく機銃掃射を浴びせるのが戦争なのである。しかし、工藤艦長の部下たちはこの行為を必ずしも快く思っていたわけではなく、捕虜たちをそのまま海に突き落としたいと思ってる者さえいたという。杉原千畝氏の行為が長く知られることがなかったように、工藤俊作艦長のこの行為も、「敵兵を救助せよ!―英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長」という本で紹介されるまではほとんど知られていなかった。
なぜ語られなかったのか、それは「敵兵を殺すべきフィールドで殺さなかった変わり者」と思われたせいだとオレは思う。「武士の情け」ということばが日本語にはある。オレはそれこそが日本人が共通して持つ国民性であり価値観であり、一般市民まで皆殺しにする近代の戦争は西洋的であるような気がするのだ。東京裁判の欺瞞性は原爆投下や東京大空襲といった戦争犯罪に対して「戦勝国側の行為ならいかなる残虐行為も罰せられない」という前例を作ったことにあるとオレは思っている。その結果、市民を戦争の巻き添えで殺すことはこれ以後、罪でもなんでもなくなった。イラク戦争の誤爆で死傷した市民に対して米軍が一切の賠償を行っていないことはその証拠である。
真に反戦を叫ぶならば、戦争の本質を理解しないといけない。映画「二百三高地」には仲間が戦死したいことへの怒りから捕虜を射殺する場面がある。しかし、戦場ではじめて出会う初対面の敵兵士との間にはもともと憎悪などの感情は存在しないはずである。本来敵対関係にない相手を攻撃させるためには「鬼畜米英」などの標語を用いて憎悪を植え付けるという作為が必要だった。
終戦記念日の8月15日、小泉首相は公約通りに靖国神社参拝を行った。総理大臣の公人としての靖国神社参拝には賛否両論が存在し、あちこちでこの問題に関する議論が繰り広げられている。オレはそれが悪いとも正しいとも言わない。ただ、一私人であるオレはいつか靖国神社に参拝して、あの戦争で犠牲となった英霊たちの魂に深く感謝の祈りを捧げたいと思っている。戦後61年の繁栄は彼らの犠牲の上に築かれたのだと思わずにはいられないからである。彼らの多くは天皇陛下のためでも日本という国家のためにでもなく、ただ家族や恋人といった愛する人たちや美しい日本の山河を守りたかったから散華していったのではないか。次に生まれ変わるときには戦争のない時代に生まれることを願いながら。
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08月16日(水)
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