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衛澤のどーでもよさげ。
by 衛澤 創
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■正義は正しいか?
TRICK−劇場版2−」を、例によってレイトショーで観る。公開前から「必ず劇場で観る」と決めていたものの、劇場が自宅から随分遠くなってしまったものでなかなか出掛けられずにいま頃になってしまった。
感想は、結論から言うと「おもしろいので観に行くが吉」。但し、テレビシリーズをおもしろいと感じた方限定。「TRICK」という作品は「おもしろさ」が独特のかたちをしているので、「何がおもしろいのか」と首を傾げている人も結構多いのではないか、と私は思っている。

シリーズを通して御覧になった方は既にお判りのことと思うが、「TRICK」はストーリイそのものは特に笑うようなものではない。ただ、ストーリイを飾りつける部分、つまり地名だとか登場人物の名前だとか、人物のサブ設定だとか、ストーリイの進行に直接は関係がない部分に笑える仕掛けが必要以上に沢山施されている。それも、万人が笑えるものではなく、一部の人がこっそり笑ったり、笑えずにいる人に「いまのネタの何がおもしろいか」を説明してあげる優越感のようなものを感じたりできるような、そんな仕掛けだ。選民意識をくすぐると言うか。
今作も一九八〇年代前半を「懐かしむ」ことができる年令の人でなければあまり笑えないのではないか、と思う。「片平なぎささんが白い手袋を着けている」ことにちょっと笑ってしまうか否かが、ほかの部分で笑えるか、ストーリイの結末により悲しみを感じられるかにかかってくるのではないだろうか。

「TRICK」は奇妙な作品で、観ている時間の半分は笑っていることができるのに、確かにおもしろいのに、観終わった後味があまりよくない。逆から言うと、後味が悪いストーリイなのに沢山笑える。
シリーズを通して大抵は、超常現象をまったく否定する物理学者上田次郎教授と、「超常現象の大抵は奇術で再現できる」が持論の奇術師山田奈緒子が、或る寒村にやってきた「自称神様」や熱心な信者を抱える新興宗教の教祖やカリスマ占い師などが住民に見せる「奇蹟」は「奇術の応用に過ぎない」ことを暴いてみせる、というストーリイである。「或る寒村」には「奇蹟を行なう者」によって不利益を被る「少数派」がいて、「奇蹟を行なう者」を崇めたい多数派に疎んじられている。しかし「少数派」はやんごとなき事情を抱えていて、上田と山田を頼ることになる。

上田と山田は放送または上映時間の一時間若しくは二時間を一杯に使って東奔西走したり窮地に陥ったりしつつ「奇蹟」が「奇術」に過ぎず、「奇蹟を行なう者」は神でも特殊な人種でもなくただの人間であることを、テレビシリーズや映画のどのエピソードでも結局は暴いてしまう。それも、上田も山田もそれぞれの利益を確保するために、窮めて利己的に。
「依頼人」は存在するものの、上田と山田のどちらも「依頼人のため」ではなく依頼人がもたらす「報酬」を得るために行動する。そして、奇蹟が奇蹟でなく奇術であることを明らかにするという彼等の行為は、すべての人に有益なことではなく、むしろ多くの人に不幸をもたらす結果となる。
つまり、「自称神様」にせよ、新興宗教にせよ、占い師にせよ、その者たちの「奇蹟」を「奇蹟」として信じることによって倖せになっている人も大勢いて、「奇蹟」を奇蹟でないと明かされるとその人たちは拠り所を失くして路頭に迷ってしまうということだ。

さて、ここで問題になってくるのは、「奇蹟」は「奇術」に過ぎないことを暴くことは果たして正義なのか、もしも正義であるのなら正義とは正しいことなのか、ということである。

世の中を凶行で恐慌に陥れる巨大宗教や巨額の鑑定料を取り高価な開運グッズを売りつける占い師は、一見すると悪徳で、誰のためにもなっていないように見える。しかし確かに「信者」は存在するのである。そうでなければ宗教は大きくはならないし、占い師は有名になることもそれによって鑑定料を引き上げることもできない。

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07月10日(月)
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