ID:38229
衛澤のどーでもよさげ。
by 衛澤 創
[134375hit]

■ヤなガキだったんだ。
一昨日から昨日に掛けて大阪某所に出向き、自分の現在と現在から振り返ってみる過去について御話する機会に出会った。ぼくの鬱病はGID(性同一性障害)が原因なのか別のところに原因があるのか、というような質問に答えるためだ。二箇所へ出向いて何れの場所でも同じ話題が出て同じ内容を御話させて頂いたのだが、こういう話を平気で笑ってできるほど現在の自分は落ち着いているのだなと自分でちょっと驚いた。

幼い頃のぼくは一ト言で言うなら「厭な子供」だった。
ぼくの幼い頃を話すためには、先ず父親がどういう人間だったかということを説明しておかなければならない。とにかく厭な人間だった。碌な人間じゃない。
ぼくは父親を「人間だ」と表すのが厭だった。かと言って「豚」だとか「鬼」だとか「悪魔」だとか表したら、豚や鬼や悪魔を辱めることになってしまう、とも思っていた。それくらい大嫌いだった。「憎んでいるか」と問われたら否と答えただろう。憎むどころか恨んでいた。

何故そんなにも嫌っていたかと言えば、とにかく危害を加えられるからだ。よく怒られた。叱られたのではなく怒られたのである。それも理不尽な怒られ方で、「悪いことをしたから」などのまともな理由で怒られたことは皆無だったと言い切ってもいい。ぼくが悪いことをしたからではなく、父親の機嫌がよいか悪いかで怒られるか否かが決まった。
父親の機嫌がよろしくないときにほんの僅かにでも父親の意に染まないことをすれば間違いなくその場で怒られる。たとえば、何か話しかけられたけれども巧く聞き取れずに「えっ?」と聞き返す、というようなことでも怒られる。その怒られ方も怒鳴られるだけでは済まないのだ。暴力が必ず伴う。
手近にあるものを何でも投げつけてくる。硝子の重い灰皿が空を切ってきたり、食卓がひっくり返ったりした。拳骨で殴られる。左右両方を使った乱打である。サッカーボールのように蹴り転がされる。腕や脚が内出血で真っ青になった。父親の怒りが治まるまでこれが続く。

当然痛いし、怖い。何故殴る蹴るされなければならないのかも判らないまま痛みと恐怖とに耐えなければならない。父親は「このガキ!」と怒鳴るだけで何が気に入らなかったのかを一切言わないからだ。どうして怒っているのかを怖る怖る訊ねると「何で判らないんだ」と言ってまた怒られる。
できるならこんなめに遭うことは避けたい。だからぼくは、四歳になる頃にはできるだけ父親の近くにはいないことを心掛けたり、何が父親の気に障るか判らないから可能な限り喋らないようにしていた。更にはそのようにしている自分を自覚している子供らしからぬ子供だった。

言いたいことがあっても言わない。意見を求められても「よく判らない」と茶を濁して自分の意見を明らかにしない。相手の顔色を見て「笑った方がいいかな」と察したときだけ笑いたくなくても笑い、それ以外はうれしいときも困ったときもつらいときも感情を外に出さない。「何かほしいものはない?」と訊かれたら「これがほしい」でも「ほしいものはない」でもなく「別に」と答える。望むことに当たっても避けたいことに当たっても常に「我慢する」ことを選択する。
こうやって実例を挙げるだけで「厭な子供だな」と思う。もしもいまのぼくが当時のぼくをそのまま見たのだとしてもやっぱり、子供らしくない厭な子供だと思うだろう。
更に言えば、この後ぼくは「他者に読まれることを前提にした」日記をつける習慣を身につけることになる。小学校三年生だか四年生辺りからだ。ますます厭な奴だ。
しかし、これがぼくの著述能力の向上に役に立ったのは間違いない。文章はただ書くだけでは上達しない。自分以外の誰かが読んでよく判るか否かを考えながら書かなければ幾ら書いても上手な文章を書けるようにはならない。

この父親も、ぼくが二度の精神科入院を経て迎えた三二歳の秋に他界した。四年前のことだ。七〇歳を越えていて、死因は肺癌だった。癌が発病した後の父親は少しだけおとなしくなり、流石に暴力を奮わなくなった。その頃になってようやく父親とぼくとは、間に母親がいるときに限ってだけれど少しずつ話すようになった。

[5]続きを読む

03月20日(月)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る