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衛澤のどーでもよさげ。
by 衛澤 創
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■片想い/東野圭吾
昨日、古書店に探しに行った文庫本とは「片想い」(東野圭吾/文春文庫)でした。一ト通り読了しましたので簡単に感想を記録しておきます。

表題を見るとラヴストーリイっぽいのですが、そうでもありません。もう少し深い意味をこの表題は含んでいまして、それは御一読の上、御確認を頂きたいところです。
巻末の解説によると東野氏はSMAP「夜空ノムコウ」をモチーフに本作を発想したとのこと。読了後にそれが頷ける、少し色褪せかけた青春とその中に生き続ける主人公たちの姿が描かれています。主人公たちって「青春」とか気恥ずかしい言葉を使うのも抵抗がなくなる頃の三十路さんなのですけどね。

主人公・西脇哲朗は大学生時代にはアメリカン・フットボールの名選手だった。当時のチームメイトやチームマネジャーとは卒業から13年経ったいまも強い絆で結ばれ、年に一度は顔を合わせている。その年に一度の日、会合の後で、暫く合わなかったもと女子マネジャー日浦美月を哲朗は見つけるが、美月は女性ではなくなっていた……。
というのが大体の粗筋。と言いますか、導入部分です。

主題にごくごく近い部分に「性同一性障害」が取り上げられている、ということを明言すると日浦美月がいわゆる「FTM」であることが窺えるかと思います。このヒトが「人ひとり殺っちゃった」とか言うので哲朗や、学生時代に美月と一緒にマネジャーをやっていていまは哲朗の奥さんの理沙子たちが「事件」の真相を解明しようと東奔西走するのですが、その中でいろいろな「ジェンダーの御話」が出てきます。これは大変興味深いのでお読みになられることを勧めます。
「性はグラデーション」というのが昨今の決まり文句ですが、この言葉が流行り出す以前の2000〜2001年(本作発表年)に東野氏は「男と女はメビウスの帯の裏と表」という言葉を提示なさっていて、それは本書を読んで私も納得できました。「決してコインの裏表ではない」と。

ほぼ準主人公の位置にいる日浦美月が当事者であるために性同一性障害についても詳細を書かなくてはならなかった。それがために東野氏は埼玉医大をはじめ多くに取材に当たったという御話を予め伺っていました(御本人からではありませんよ?)。それだけに「間違ったこと」は書かれていません。埼玉医大手術1例めのN原氏の行動がモチーフになっている日浦の行動なども見られて当事者はちょっとくすぐったいかも。
しかし、「間違いは書いていない」にしろ、私から見るとやはりどうしても「やっぱり非当事者が書いたものだなあ」なんてことを思わざるを得なかったりしました。だからこその「よい点」も含めて、です。当事者からは見えづらい事実や視点なども含まれていますから。

解説にも引用されている部分です。或る人物の台詞より。
「私は性同一性障害という病気は存在しないと考えています。治療すべきは、少数派を排除しようとする社会のほうなんです」
これには私も100%でないにしろ同意できます。しかし、続く会話。
「受け入れられさえすれば、ホルモン療法も手術も必要なくなると?」
「私はそう信じています。…(以下、台詞続く)…」
これは哲朗と或るFTM氏の会話なのですが、私は認める訳にはいかない立場にありますな。こういう考え方も勿論多分に「あり」で、この考え方の人の方が多いのだということも知っているつもりでいます。でもこれが「すべての結論」と解釈されるようでは困る、と思いました。
だって、私は世界60億の人々がひとり残らず私をまったくの男性として認めて受け容れてくれたとしても、手術を望みますから。気持ちと身体の喰い違いによる苦しみは、「受け容れられること」「だけ」では解消されないのですから。
もひとつ付け加えると、私は性同一性障害を「まったくの奇形」だと考えています。「病気ではない」「障害と呼ばれたくない」という過半を占める意見に同調しかねる部分です。
さて、東野氏は先のように書かざるを得なかったのでしょうか。それともこれが、取材と構想と執筆とを経て東野氏が辿り着いたひとつの結論だったのでしょうか。

作品全体から見るとほんとうに些末なことでしかないのかもしれませんが、どうしても気に掛かる部分がひとつ。

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12月30日(木)
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