ID:38229
衛澤のどーでもよさげ。
by 衛澤 創
[134224hit]

■個人の感想です。
しかし、だからこそ、四郎がその気持ちを抱えていることをもしも未来が知ったなら、未来は傷つきかねません。それは物語終盤で四郎が考えています。未来のために「この恋を隠し続けよう」と。
この物語は、四郎の恋は、悲恋に終わるでしょうか。どうもそうは思えません。どんな葛藤のもとにどんな過程を経るにしろ、大団円を迎えるのではないでしょうか。その根拠は、2000年以降に発表された主立つ物語はだいたいハッピーエンドを迎えており、アンハッピーエンド(いわゆる「鬱エンド」)は物語の受け手にかなり嫌われているということです。多くの読み手を納得させるにはハッピーエンドを目指さざるを得ないのです。
さて、アンハッピーエンドを避けるにはどのような展開になればいいのでしょうか。四郎と未来が「正しく」結ばれることではないでしょうか。ここでの「正しく」は「互いにヘテロセクシュアルとして」と換言できます。ヘテロセクシュアル前提の世界ですから。
ということは、性自認が確立している(揺らぎの片鱗も見せない)四郎が「正しく」結ばれる相手は「女性の性自認を持つ」人、つまり未来が女性の性自認を持つ展開となることが予想されます。これが結末へと向かう過程の一つであればいいのですが、結末そのものになるなら、私は厭だなと思います。そんなにも「ヘテロセクシュアル万歳」か、と。そんなに性同一性障碍当事者の性自認は頼りないものと認識されているのか、と。

ヘテロセクシュアルはヘテロセクシュアルとして存在するとして、主人公がそのマジョリティに属せねばならないという法はありません。これまで姉たちに虐げられてきて女性にあまり魅力を見出せずに生きてきた四郎なのですから、未来との関係を続けるうちに女性よりも男性に魅力を感じるゲイセクシュアルとしての自己を発見するという展開があってもいいのではないでしょうか。身体は男女のままに繋がるゲイカップルも現実には確かにいます。
前提を覆して、四郎と未来がそういう関係となる展開もおもしろい(興味深い)と思います。世間さまが思い込んでいる「生物学的性と性自認とは必ず一致するものだ」という当然を当然ではないとする物語が若い読者層に読まれるというのは、セクシュアルマイノリティがまっとうな市民権を得る助力となり得ましょう。恋や愛で結ばれるのは常に男と女の二者であるという当然は実は当然ではないとする物語、それはきっとマジョリティのセクシュアリティについて考える機会を増やすよいテキストとなるでしょう。
物語のおもしろさとともに、セクシュアリティについての考察を促すものを含む作品であってほしいと思います。

※註
身体が男女として繋がるのであればヘテロセクシュアルなのではないか、という疑問をお持ちの方もあるかと思いますが、セクシュアリティは性自認で捉えるものですので、性自認が男性の四郎と性自認が男性の未来が互いを恋うことはゲイの関係となります。

この作品には「一年目 春」というサブタイトルが付いています。おそらく続編が、一年目の夏以降の物語があるのでしょう。「一年目 春」の結びも、ここで完結とするなら消化不良の感が否めません。「未来の元彼」が出てきて、これからどうなるの?というところで終わっていますから。
今後、四郎の気持ちがどう変化するのか、未来との距離感がどう変わるのか、判りません。凝り固まった性規範に囚われない物語となることを願います。それは即ち、四郎と未来はそれぞれが自分の何かを抑圧することなく、そのままの自分で互いに結ばれてほしいという読み手としての気持ちでもあります。

08月13日(水)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る