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衛澤のどーでもよさげ。
by 衛澤 創
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■個人の感想です。
心は男性であっても身体は女性の人と同室になったことに戸惑う四郎。しかしともに生活するうちに四郎は未来を男性として感じられるようになってきます。虐げられて自分を抑えて育ってきた四郎は自ら行動を起こすということがあまり得意ではありません。そんな彼は積極性のある未来にちょっと振りまわされ気味にアルバイトや女の子とのデートや学校生活を経験していくうちに、未来と一緒にいることが愉しいと感じるようになります。
同様に、未来もまた四郎と過ごすうちに彼に信頼を置くようになり、「ずっと、俺の友達でいてくれ」と四郎に言います。「お前には、隠し事、しない。今の俺も、これからの俺も、全部見せるよ。(中略)だから、頼むよ。ずっと友達でいて欲しい」と。
四郎は「俺も、未来といるの、楽しい。(中略)友達でいたいって、思うよ」と答えます。しかし、心の中ではこう思うのです。「もう、遅いよ、未来」と。「俺はもう、たぶん、お前のこと、好きになってしまってる」と。
決して口には出せない、出してはいけない思いを抱えながら、高校生活一年目の春は過ぎていきます。
読んでいる間に先ず思ったのは「ああ、またイケメンか」でした。物語に現れるFTM(性同一性障碍当事者のうち、女性から男性に性移行したい人)は大抵「美少年」であったり「中性的」であったり恰好よかったりイケメンだったりします。最早や定型と言えましょう。これは小説だけでなく、漫画や映像でもそうです。2001年放送の「3年B組金八先生」第6シリーズでは「国民的美少女コンテスト」で審査員特別賞を受賞した上戸彩さんがFTMを演じていました。これが多くが知るいい例で、見目のよいFTMばかりです。
日本で性同一性障碍という言葉が使われるようになって約20年、「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」が施行されて10年、そろそろ角刈りガチムチおっさんFTMなんてのが登場してもいいと思います。つーか、現れてください。FTM=イケメンだとか一般に印象づいたりすると、現実に存在するスポーツ刈りの髭でデヴのおっさんFTMは何だか肩身が狭いです(個人の意見です)。
本編の地の文は一人称、つまり主人公四郎の視点で物語は進行していきます。だから仕方がないのかもしれませんが、未来を逐次「女である」と表しているのが、時折ささくれのように私の胸に引っ掛かります。未来の「身体が女性」であることを知ってしまってその点を意識せざるを得なくなってしまった四郎の目を通しての描写ですから仕方がないのだけど、でもFTMは女性じゃないんだよ、という気持ちが身体の中に澱みます。
四郎が未来に「女だ」と言ってしまったときに、未来が「俺は男だ」「次に女って言ってみろ、マジで殴るぞ」と怒る描写は、きちんとあります。同級生が何の気なしに言った「いい嫁さんになるぞ」という言葉に傷ついた(かもしれない)ことも書かれていますし、スカートが厭だったとか特撮ヒーローの変身ベルトがほしかったけど買って貰えなかったとか、そういった未来のエピソードも、四郎との会話を通して読者は知り得ます。でももの思うのは四郎です。読み手は四郎と同期することでしか未来を知り得ません。
「恋は、心でするのだろうか? それとも、体でするのだろうか?」
物語の冒頭にこの言葉が掲げられ、物語終盤では四郎が「人は、どこで恋をするのだろう」と考えます。もしも身体が恋をするのなら、この先未来が自分に恋をすることもあり得るのか、と。そして、自分の身体は未来に恋をしている、と。
自分の身体は未来に恋をしていると考えているということは、四郎は未来を女性として恋しているということに外なりません。何故なら、この小説は、人は並べてヘテロセクシュアル(異性愛者)であるという前提で書かれているからです。未来は女の子好きの健全な男の子の姿で描かれていますし、四郎たちと同じ男子寮に生活する生徒たちも「将来お嫁さんを貰う(つまり女性を伴侶とする)」のだと当然のように考えていたりします。
それだからこそ、恋をするのは身体か心かなどという葛藤が生まれるのです。
これも、作品世界においてさえヘテロセクシュアルをマジョリティとする世の中だから、仕方がないのでしょうか。
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08月13日(水)
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