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マシンガン★リーク
by 六実
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■喜怒哀楽、まんなか二つは一緒。
演劇集団キャラメルボックス「SKIP」を観てきました。
いやキャラメル観るのも久しぶりなら、サンシャイン行くのも久しぶり。
どれぐらい久しぶりかというと
・確か最後に観たのはカレッジの再演
・今日観たら知っている役者が5人ぐらいしかでていなかった
・初演と勘違いして再演版「俺たちは志士じゃない」のDVDを衝動買いしてしまった(出てる人違うのに)(というか私この再演観に行っているはずだよなぁ)(記憶にない)。
[一部にしか伝わらないキャラメルトーク]
今回はどちらかというと、原作ファンなスタンスで観にいったんですが、うわ、よく舞台化したなぁと素直に感心したのが一番の感想です。一人称語りの原作を、ほぼそのまま舞台に上げた感じ。ほぼ原作通りの台詞、そして原作のト書き(地の文)も役者が語る台詞になっている。でも朗読劇ではないんです。17歳の心が飛んできてしまった40代の真理子を二人の役者(17歳の外見と40代の外見)が演じるという事で、ああ17歳の真理子はスカーレット2みたいなもん?と思っていたら、この2人で「17歳の心が飛んできてしまった40代の真理子」を代わる代わる入れ違いに演じる。てっきり目覚めたところから入れ替わるのかなぁと思ったら、鏡を介して二人が入れ替わるのも面白かったし、不思議なことに、観ていると本当に同じ人物に見えてくるんですよ。いやぁ、よかった。
でも小説が舞台にあがる限界は確かにあったなぁと思います。常々、ワタクシ、どうして舞台にあげるのか、他の表現方法ではなく、何をもって舞台という表現方法を選ぶのか、という事を考えているのですが(ウザ)、その答えが少し見えてきた気がしました。えっとわかりやすく言うと、宝塚のいくつかの舞台に「これ、脚本読めば(ひいては小説として読めば)十分なんじゃない?」と思い始めたことが発端なのですが。
舞台にあげる、というのは実体化させることに他ならないのかなぁと思いました。例えば今回の場合、一ノ瀬先生の授業とかは実体化したおかげですごいリアルでいきいきとしていた。けれども担任クラスの生徒のそれぞれのエピソードは、実体化されたが故に、物足りなくなっていました。役者というかたちを借りて舞台に実体、というか存在したとき、原作の文章だとすらっと読み解ける部分が、イチイチ重みがついている感じ。原作では一ノ瀬先生のクラスの生徒たちのエピソードとして淡々と語られているのが、実体化したがゆえにエピソードの独立性が強くなった、で結果として舞台の流れが少し散漫になったかなぁ、と。あとはテンポが舞台のほうがどうしても速くなっちゃうから、そうしたエピソードがどんどん流れていったというか。原作から割愛された部分もあるせいだとは思うのですが。
逆に実体化された事で、今まで気付かなかった事に気付かされたこともあります。やっぱり読むのと聞くのは違います。真理子が「今の私には残酷だ」という言葉の数々が、本を読んでいた時以上にずっしりときた。舞台にあがる、実体化することで感情移入しやすいのかもしれません。
ちょっと惜しかったのは、小説の冒頭にある17歳の一ノ瀬真理子の時代が省略、かつ流されちゃった事かなぁと。折に触れて本来の17歳を回顧したり髣髴させたりとする、そのリンクがすごくせつないのですが、それが冒頭でバーっとながれちゃった感じ。惜しい。というか17歳の池ちゃんのイメージが私的にはちょっと……。
ウザくてホントすみません。いや、でもきっと観た人いないと思うし!伝わらないと思うし!(逃げたな)。 一長一短、って簡単な言葉ではすまないのですが、舞台は舞台でいい舞台でした。
とりあえず、もしご覧になった方がいて、原作未読でしたら、力いっぱい読まれることをオススメしておきます。
[お口直しトーク]
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12月04日(土)
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