ID:26167
マシンガン★リーク
by 六実
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■しゃっくりをとめる100の方法(のうちのひとつ)
 ただ最終的にルキーニは狂気をもってしてエリザベートを刺すわけですから、そこにどうやって持って行くのかなぁと2幕を観ていたら、トートに剣を渡された瞬間「狂気」に豹変。それがようやく表舞台に登場した役者みたいでした。待ちに待った出番を得て、飛び出てくる役者。あの狂気はホンモノの狂気じゃなくて、限りなくホンモノに近い演じられた狂気、だなぁと。
 その舞台の脚本を書いたのは、少なくともトートではない、と思います。


[雪組メモ:アマセの件について]

 アマセのヴィンデッシュ嬢も、狂気ではなかった。これまたびっくりしました、あ、あたらしい?
「自分をエリザベートと信じている狂女」ではなくて「精神を病んで病院に閉じ込められている可愛そうな女」でした。それゆえにエリザベートとの対比が「あなたは自分をエリザベート(皇后)というけれど、皇后の孤独はこんなものではなくて、皇后に比べればあなたは自由なのよ」ではなく「精神を病んでこの病院に閉じ込められているあなたより私はもっと自由ではない」になっていました。……これは、アマセ自身の解釈?演出の解釈?今までと同じヴィンデッシュの狂気を期待していたので、正直すごい肩透かしをくらいました。これはこういうものとすればアリだと思うんですが、盛り上がりに欠けちゃった、と感じたのも事実だなぁと。
 その「可愛そうな女」よりも自由でないことでエリザベートの孤独を浮き彫りにするには、余りにも今までの演出と違いすぎるので、どうしても先入観がたってしまったなぁと。アマセの演技としては嫌いじゃないんですが、むしろなんてかわいそうなの、と抱きしめたくなったのですが。


[雪組メモ:で、ようやく水先輩のトートの件]

 水トートがどうみてもソリストのお姉さまにしか見えなかったこととか、ヅラの緑が思っていたより映えなくてああ梅雨時ですからね、な色に見えちゃったりしたこととかはさておき(怒られます)、なんというか水トートはバケモノ感が強かったです(もっと怒られます)。うーんなんて言えばいいんだろう、この世に存在しないもの、幽霊、憑き神(あ、それかも)。とにかく「黄泉の帝王」という個体には見えなかったんです。だから「黄泉の帝王がひとりの人間を愛してしまった」物語には見えなかった。その代わりに、「トート=死]」というのが良く見えました。エリザベートの死への衝動が具現化されたもの、ルドルフの死への衝動が具現化されたもの、エリザベートが最後まで戦い続けた己自身の「死」、ルドルフが翻弄された己自身の「死」。トートはエリザベート自身であり、トートはルドルフ自身である。実際、「黄泉の帝王、死」であるトートの存在には、エリザベート、ルドルフの死への衝動を投影した存在である訳ですが、それがそのものずばりに見えたのは今回が初めてでした。ぶっちゃけトートがエリザベートの、ルドルフの作り出したものに見えたんです。だからこの世に存在しないありえなさ感が満載でも構わないんです。トートがオネエでも、トートのヅラが光合成していても全然問題ないんです。だって、黄泉の帝王は実は存在し得ないものだから。
 そう言った意味では「トート」という存在に限りなく近づいたのが水先輩のトート、だと思うのですが、これはあくまでも宝塚版の「エリザベート」で、トートは「エリザベートを愛する死」という「個」を持たなくては物語が成立しない。けれども水先輩のトートは「死」そのものだった。死に「個」はいらない。水先輩のトートに個がなかった、というより、より限りなく「死」に近づいてしまったという感じです。トート(というか水先輩の)ソロ場面も、愛を歌い上げる場面もあるのに、最後の昇天場面まで「トートはエリザベートが作り出した幻影」感が消えませんでした。

 あたらしい、このトートも新しい。
 けれどもそれだと、実は宝塚歌劇としてなりたたない(主演男役がなりたたない)と思いました。





 以上、私が今回の雪組版で「あたらしい」と思ったところです。

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07月16日(月)
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