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マシンガン★リーク
by 六実
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■百万本のバラの花をあなたにあげる(涼さんなら実現できる)
というわけで、最後に龍星自身としてではなく『龍星』としてでもなく、「龍星」として玉座に座ったところに違和感を覚えたんです。この人、何も得ていない何もわかっていない。逆にそこできっぱり終わるならそれも良かったんですが、その後に花蓮が出てきて「男たちの物語」みたいに総括(違)するじゃないですか?その男たちの中に龍星は入っていないように思えたんです、未完の龍星はこの物語の最後から外れてしまったような気がしたんです。
更に違和感を感じたのがその後のフィナーレ、子供時代の自分自身を抱きしめる龍星、それが龍星が「龍星自身」の「過去」を受け入れたんだと思ったんです、「龍星自身」を認め手に入れたんだと思ったんです。でもそれが物語ラストの龍星とはどうしても繋がらない。フィナーレを別物と考えればいいんでしょうが、でもやっぱり関連つけるじゃないですか?投影させるじゃないですか?(例えば王家のフィナーレのデュエットでラダメスとアムネリスが別次元で結ばれたのねほろり、みたいに)それは観客側の勝手な思い込みじゃなくて、演出も役者もその投影を意図しているわけじゃないですか?ラストに歌うあの歌も、龍星が「龍星自身」として『龍星』となってからだと、あの歌詞も生きてくると思うんですが、絶望したまま未完の龍星には繋がらない。フィナーレだから別次元だからつうか宝塚歌劇のフィナーレだから大団円、とは受け取れなかったんですね。
(まあとりあえず落ち着け)
いや、単に私が「こうなったらいいのにな」解釈を押し付けているだけかもしれませんが、でも私の中で私なりに咀嚼して解釈してきた物語の一番最後の部品がぽろりと外れてしまった感じです(ぽかーん)。
龍星と霧影は単なる入れ代わりの物語というだけではなくて、その対比として面白かったと思うんです。上でも言った「今」しか持たない龍星と、「過去」「今」「未来」「未来のその先」まで持っている霧影。でも霧影だって「霧影」という名前は本当の名前じゃ無かったわけじゃないですか?名前そのものはあっても「霧影」ではない、「霧影」という存在ではない。けれども霧影はちゃんと自分の力で自分自身を持っていたんだと思います。だから自分が本当は龍星だとわかっても、何も揺るがず何も変らず、自分自身をしっかり持っていた。自分自身の存在が「名前」に頼るものではない、と。龍星は「名前」が無いと、自分自身の存在がないと思い込んでいた。そういう対比、悲劇なんだと思います。
星に「未来」を、「未来のその先」を託していた霧影、星から出た凶兆を笑い飛ばした龍星。そこもまた対比であったのかと思います。
児玉っちは何が言いたかったのかなぁ(真顔)。本当に数奇な運命に弄ばれたかわいそうなみなしごとして、トウコさんに龍星を書いたのかなぁ。その為に最後に砂浬と飛雪を最後に出して、龍星が「龍星自身」でありえた証拠を失わせて、尚も龍星として君臨するしかない、その哀れさを書きたかったのか……でもそれはあまりにもひどすぎるかわいすぎるつうか鬼だよ児玉っち。本当にそうしたいなら、そう徹底すれば良かったのに。そうしたいならあの可愛そうな黒猫龍星のままで幕を下ろせばいい、フィナーレなんていらない、かわいそうなままにして客席がボーボー泣けばいい。その方がすっきりするよ?(私的にはね)
補足になってしまうのですが、龍星が李宰相を殺した時点で、本当は龍星は「龍星自身」として『龍星』を手に入れることができたんじゃないかと思うのです。「龍星自身」を見ていた砂浬・飛雪に対して、李宰相は龍星に「自分の息子・霧影(が皇帝になること)」を見ていた。
更に言うと烏延将軍は「龍星自身」に龍星という名を与える事によって「龍星自身」を封じ、龍星をつくりあげそのつくりあげた龍星を見ていた。皇后やその他の登場人物も龍星を本物の皇帝と信じて、「龍星自身」を見てはいない。そう思うとやっぱり龍星が「龍星自身」を手に入れるのが物語のテーマでいいような気がしてきた(超手前味噌)。
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10月20日(木)
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