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武ニュースDiary
by あさかぜ
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■ピーター監督の著書出版
あー、読んでみたい。
筆者の馬氏は、香港の著名な学者、とあります。


香港のピーター・チャン月間

今月末、ピーター・チャンが本を出す――『私の道(My Way)』である。
数十編の文章が収録されているが、
ピーター・チャンの監督としての所感やインタビューあり、
他の監督やスターによるピーター・チャンとの仕事の経験談あり、
また映画評論家の分析に、
ピーター・チャンの父親が語る「わが息子ピーター・チャン」もある。

なぜ知っているかですと?
ピーター・チャンが、私に本の腰巻のコメントを依頼してきたのだ。
梁文道は最近内地で「腰巻プリンス」とのあだ名がついているが、
実は、香港では私もまたそうなのである(「腰巻おじさん」と言うべきだろうが)。
ほぼ毎月、2つか3つの出版社から、帯に載せる文章を依頼してくる。
どれも好きな著者の本なので、来る者は拒まず状態なのだ。
今回は、本のタイトルが道路に関連があるので、60字以上も書いてしまった。
出版社の要望は30字以下だったのだが。こうである。

「映画界は付和雷同する者が非常に多く、
進んで道を切り開こうとする人間は極めて少ない。
付和雷同は楽だが、道を切り開くのは大きなリスクがともなう。
だが、後者は前者より遥かに刺激があり、そして刺激こそが報酬なのだ。
ピーター・チャンは道を切り開く人間であり、
その途々で人間の生活を知ることになった。
しばし、彼が弁舌さわやかに語り尽くすのに耳を傾けようではないか」

香港の3月、4月はピーター・チャン月間≠ナある。
理由の1つは、香港国際映画祭の「焦点映画人」として、
多くの作品が上映され、セミナーが開かれるからだ。
もう1つの理由は、彼が香港のNowTV有料テレビグループのために、
人気の中国語映画・芸能ニュース専門チャンネルの企画に携わり、
その宣伝のため、マスコミに出ずっぱりだからである。

ピーター・チャンのファンとして、私はもちろん、
彼をたくさん見られれば見られるほど嬉しい。
彼の作品はどれも大好きだが、中でも「如果・愛(ウインター・ソング)」は、
お気に入り中のお気に入りだ。
この映画でピーター・チャンは、またもやその監督としての力量を見せつけている。
劇中劇はもともと最も扱いにくいところに、
西洋風サーカスやミュージカルまで登場させて
登場人物1人1人の複雑な心の変化を描き出す。
映画が終わったとき、観客はどこか遠いところの物語を聞き終わったようでいて、
心残りや失望の念を身近に感じ、それ以上に、「何が愛か」について当惑が大きくなる。

何が愛なのか? もちろんこれは大きな問題だ。
林見東は10年待った。1人の女性が振り向いてくれるのを待ったのであるが、
それは愛のためというよりはむしろ、未練と復讐のために過ぎなかったように見える。
しかし、復讐を果たした後、本当はまだ愛していたのかもしれないという思いにとらわれる。
愛すること、あるいは愛さないこと、愛することと愛さないこと、
それはもともと決して別物ではないのである。

もしかすると、愛の魔力と悩みこそが「もし」の原因なのかもしれない。
もし愛しているなら、もし愛していないなら……
我々は非常に多くの時間とエネルギーを費やして、
その「もし」の背後にある真実を証明しようとする。
だから、我々が嫉妬し、探り、悩み、選択をする……
あらゆる手立てはすべて、はっきりした証拠をつかみ、
愛(または愛がない)を見つけたと思いこむためなのである。
そこで愛は往々にして神秘な実験へと変わるのだ。
白衣を着た偏屈な科学者のように、我々は試験管と液体の間をてんてこ舞いして、
こっちの液体をあっちの試験管に流し込んでは、
またあっちの試験管とこっちの液体をぶつけあい、
おののきながら、今か今かと結果が出るのを待つのだ。

その期待の過程を我々は「恋をする」と名付ける。
恋の最大の喜びはつまり焦りとおののきなのだ。
恋愛は確かで、純心だ。
ところが恋することは、曖昧で快楽なのである。

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03月14日(水)
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