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武ニュースDiary
by あさかぜ
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■釜山のバーティー●追記
釜山映画祭で行なわれた「武侠」パーティーについて書いた
興味深い記事があります。なんと、あの宣伝係、陸三士さんの筆になるものでした。
ピーター・チャンが見た釜山映画祭
10年に1度の大パーティー
釜山映画祭で記憶に残るのは、たぶん釜山ではなく、映画でもなく、
ほろ酔い気分≠セろう。
釜山映画祭が最初に行なわれたのは、今の海雲台地区ではなく、旧市街の方で、
政府の援助は今とは比べ物にならないくらい少なく、
多くを幾つかの大手の映画会社の寄付に頼っていた。
「当時の釜山映画祭は、それこそ毎日飲んで酔っ払っていた」
と酒を飲まないピーター・チャンが言う。
「毎日映画を見て、仕事の話が終わったら、夜は横町の酒場に押し掛けてパーティーをした。
昼もこの人、夜もこの人、しらふのときもこの人、酔っ払ってもこの人、
付き合う相手はいつも同じ彼らなんだから、友達にならないわけがない」
大勢の韓国の監督たちが、ソウルでは会えるとは限らないのに、釜山には続々となだれ込む。
まるで市が開くのを待っていたかのようだ。
ピーター・チャンはあるバーで、韓国のプロデューサー呉姃玩と知り合ったときのことを覚えている。
ゴードン・チャンと許秦豪が彼を紹介して「This is Peter Chan」と言った。
ピーター・チャンはいわゆる最初から愛想よくふるまえる≠スちではなく、
ペラペラおしゃべりすることも苦手だったので、礼儀を守ってまず彼女にこう問いかけた。
「韓国ではどの中国映画が割によくヒットしていますか?」
呉姃玩が答えた。「『ラヴソング』です。あの映画の監督をご存じ?」
ピーター・チャンは大笑いして言った。「Peter Chanがそうですよ」
吴姃玩がまた笑い、「陳可辛」の名を韓国語読みで言った。
そしてピーター・チャンは別れを告げるときになって初めて、
吴姃玩がそのとき既に韓国では大物のプロデューサーで、
「スキャンダル」や「情事」など多くの韓国の大ヒット映画は、
みな彼女の手に成るものであること、
また韓国の若い世代の監督たちを発掘して、
姜圭の処女作を始め、彼らのプロデュースも行なっていることを知ったのだった。
1980年代、90年代は、香港の映画製作が一気に勃興し、またすぐに没落した。
吴姃玩は目を丸くして、ピーター・チャンがメイド・イン・ホンコン≠フ盛衰を語るのに耳を傾けた。
それはわざと大げさに言いたてるのではなく、少なくとも治にいて乱を忘れないということだ
――いかに、当時、新しいうねりによって推し進められる韓国映画がはつらつとした状況にあったとしても。
趣味でも性格でも気が合い、すぐに2人はよいパートナー、よい友人と成り、
一緒に「見鬼」「春逝」「晩娘」など一連の
パンアジア合作映画≠フヒット作を手がけ始めた。
その共同作業のスタート地点こそ、釜山だったのだ。
「自国の作品を守ろうとして、もっと強力な保護主義をとったとしても、
ハリウッド映画の猛攻下では、マーケットの縮小は時間の問題に過ぎない。
長い目で見るなら、アジアの力を1つにすれば、あるいは突破口があるかもしれない」
「当時の釜山の印象は、一声かければ大勢がそれにこたえる。
映画のプレミアがあれば、あらゆる監督・俳優がこぞって盛り上げにやってくる。
実に羨ましいし、また懐かしさが湧いてくる。昔の香港もこうだった」
とピーター・チャンは言う。
2001年、ピーター・チャンと吴姃玩らは、香港、韓国、タイの3つの地の監督が
共同して製作する「三更(スリー)」シリーズを開始し、
釜山で今年一番面白かった≠ニ言われたパーティーを開いた。
ホラー映画のパーティーだったが、オープニングはラテンダンスだった。
「その意義なんてのも考えなった。あれの意味は、つまり面白かったということ。
だから今までやって来られたんです」と吴姃玩は振り返る。
「ぼくも、何をやったか、何を話したか、全然覚えていない。
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10月15日(土)
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