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『日々の映像』
by 石田ふたみ
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■長期療養入院の高齢者、食住費自己負担
私は22年前、横浜市にある体に障害を持つ子どもたちのための養護学校高等部の教員として、教員生活を始めました。養護学校の教員として採用するという横浜市からの連絡を受けたとき、なぜ、ぼくが養護学校で…、と愕然(がくぜん)としたことを憶えています。社会科の教員として颯爽(さっそう)と授業をすることを夢みていた私を待っていたのは、トイレの世話、食事の介助、訓練…。私は、ふてくされていました。
そんな6月、一人の生徒がお尻を汚し、シャワーできれいにすることになりました。嫌々やっていた私は、水の温度も確認しないまま、冷水をこの子にかけていました。「ギャッ」という悲鳴がトイレに響き、その直後に私は先輩の教員から殴り飛ばされていました。
「この子に何の罪がある。そんな嫌々仕事をするなら辞めろ」。この一言が私の心をえぐりました。
ここにも私を待っている子どもたちがいる。私を信じている子どもたちがいる。私の人生は変わりました。養護学校には5年勤務しました。私は、子どもたちから日々学び、子どもたちの求める教員になることを学びました。
次に私が勤務したのは、横浜市立の受験校でした。初めて教える世界史、日本史…、毎日が勉強の連続でした。毎晩遅くまで翌日の授業のためのノート、資料作り。知識を楽しく、そして深く教えることの喜びを学びました。私には、いつも子どもたちが私の先生でした。
そして、今から13年前に夜間高校に異動しました。そこでも子どもたちから多くのことを学びました。今の私を作ったのは、まさにここで出会った子どもたちです。
この22年間、私の毎日には、いつもたくさんの子どもたちがいました。昼の世界にも夜の世界にも。そして多くの子どもたちが巣立っていきました。
試験後、机を整え、窓を閉め、黒板に「ありがとう」と一礼をして去りました。思えば教壇は、水谷が最も水谷として輝いていられた場所だった気がします。さよなら、学校。お世話になりました。 2004年9月29日
第35回 無職、水谷に
ついに無職、水谷になりました。もう「夜回り先生」ではなく「夜回りおじさん」と変えなくてはなりません。
しかし、私が学校を辞めることを告知したとたん、ものすごい数の講演依頼が続きました。すでに年内はほぼ全日、日本のどこかで講演です。ただ、困ったことがありました。私の肩書きをどうするかという問い合わせです。私が、「肩書きはありません。それではだめですか」というと、公的な機関ほど「それは…」と困った声が返ってきます。まだまだ日本は肩書きが大切な社会のようです。
私は来年の3月までは、何の仕事にもつかず、講演と執筆、そして日々のメールや電話での相談への対応で生きていこうと思っています。そして、その半年の間に、来年以降の仕事を考えてみようと思っています。体調の方は最悪で、いつまでこのからだが持つかわかりませんが、それでも来年の4月からは何か職に就きたいと思っています。
多分、下記の選択肢が今の水谷にはあるような気がします。
・ 作家、講演家として生きていく。・ 教育研究所などを開設して、子どもたちの問題に組織的に取り組んでいく。・ 何らかの教育機関に再就職し、現場に復帰する。・ マスコミと契約し、テレビやラジオの媒体を通し、社会に訴えかける。・ 休養し最後を待つ。
でも、考えれば考えるほど、どれも違和感のある生き方に思えます。
水谷は、悩んだ時はいつも、子どもたちの側に行き、子どもたちとともに考えてきました。来年の3月まで、夜の町やメール、あるいは掲示板で関わっている子どもたちとともに、来年4月からの水谷の生きる道を探してみようと思っています。きっと子どもたちが、私の生きるべき道を教えてくれます。
人が悩むということは、解答が出ないからです。そのことをいくら悩んでも救いはありません。どんどん苦しみの連鎖の中に、はまってしまいます。そんな時は、まずは悩みを捨て、自分を必要としている誰かのために何かをする。少なくても笑顔をもらえます。水谷はいつもそう生きてきました。
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10月06日(水)
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