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『日々の映像』
by 石田ふたみ
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■今日はイチローデー 
 「ものすごい感激。体が震えた」。イチローの父、鈴木宣之さん(六一)は息子の快挙に興奮と感激を隠せなかった。「小さいころから友達と遊ぶ時間を削って練習してきた。マンツーマンで練習をしてきたことが頭を駆け巡った」
 イチローが「ぼく、どうしても野球がやりたい」と父に打ち明けたのは、愛知県名古屋市の北隣、豊山町立小三年になる直前の八歳のときだ。
 物心つくころから宣之さんのひざの上でプロ野球中継を見て育った。
 確実な打撃で、イチローが少年時代を送った昭和五十年代の中日を引っ張った田尾安志選手(五〇)=平成三年引退=にあこがれた。「田尾選手みたいになりたい」。愛工大名電高時代の監督だった中村豪さん(六二)は「上手に田尾のものまねをした。いまの左ひじの張り方は、田尾ゆずりじゃないかな」と話す。
 小学三年から地元のスポーツ少年団に入団。宣之さんは右利きの息子に左打ちを覚えさせ、中学卒業まで七年間、トスバッティングの相手を務めた。一緒にバッティングセンターへ通い、朝晩の足裏マッサージを続けた。少年団では投手として全国大会に出場した。
 小学六年の卒業文集。「夢」という題の作文を書いた。
 《ぼくの夢は、一流のプロ野球選手になることです。そのためには、中学、高校で全国大会へ出て、活躍しなければなりません。…球団は、中日ドラゴンズか、西武ライオンズが夢です。ドラフト入団でけいやく金は、一億円以上が目標です…》(宣之さん著『溺愛』から)
 中村さんも「彼は目標の設定が明確だったですね」と振り返る。高校の野球部に入部するとき、イチローは「甲子園じゃなく、プロ野球の選手にしてください」と中村さんに頼んだ。試合が終わって中村さんが「よくやったな」と声をかけると、イチローは「もう済んだことです」とクールに答えた。「次の目標への切り替えの早さも際立っていた」という。
 作文の六年後、ドラフト四位で入団したオリックスとの「けいやく金」は四千万円。四百三十万円だった年俸は、二百十本安打の日本新記録を樹立した三年後、一億円になった。

≪頭脳≫
 ■少年時代から「考え抜く」
 自宅から車で五、六分、名古屋空港そばの「空港バッティングセンター」は、イチローの打撃の原点だ。
 小三から中学卒業まで七年間、宣之さんと夕食後、毎日通った。一日最低五ゲーム、百二十五球以上。帰宅後「お父さん、もう一度行こう」と納得するまで打ち込んだこともあった。立つ位置を変え、内角や低めの打ち方を練習するなど、少年時代から考え抜く野球を心掛けていた。
 「木製バットはほとんど同じところにボールが当たり、同じ部分が欠けていた」と従業員の石井一三さん(六一)。打撃センスも少年時代からさえていた。
 考え抜く「イチロー流」は、オリックス時代も引き継がれた。シドニー五輪の野球で代表に選ばれたが、辞退。「わがまま」との批判も出た。
 イチローは当時の球団代表、井箟(いのう)重慶さん(六九)に「選ばれて光栄だし、会社が行けといえば行きますけど、帰ってきたらぼくの調子が崩れることがあってもいいですね」と告げた。
 五輪の試合はパ・リーグとはストライクゾーンが異なる。帰国してしばらく、打率が落ちたり、チームが大事なところで打てなかったりするかもしれない。会社は覚悟の上で自分に行けと言うのか。理路整然と話すイチローに、井箟さんは「こっちも考えちゃうよね」と振り返る。
 中学時代からグラブをオーダーしてきたスポーツ用品メーカー、ミズノの坪田信義さん(七一)は「現代の名工」にも選ばれ、大リーガーが「マジックハンド」と呼ぶ。その坪田さんにオリックス時代、「柔らかい素材を使う」「軽く作る」「よくグラブが開く」の三つの注文をつけていた。
 大リーグ移籍後、日本と比べて芝の密度が濃くバウンドの難しい米国の球場に合わせ、「お椀(わん)のような形がほしい」との注文がきた。さらに今シーズン、「手を入れる部分の幅を五ミリだけ広くしてほしい」。坪田さんは改良して届けた。
 「『デザインを変えてほしい』という選手はいてますが、こういう注文はあまりない。研究しとる」と坪田さん。考え抜く野球は少年のころと変わらない。


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10月03日(日)
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