ID:19318
13匹目のバナナフィッシュ
by サキ
[35041hit]
■【R-15】SpiltMilk
ひとつ先の停車駅が改札の目の前だから、半分のひとが降りて席が空くことを想定して、一番込み合った車両に乗る。そして次の駅で、扉に向かって殺到する人波に逆らって、あたしは空いた座席に腰を下ろす。ほっと目を閉じる。と、あ、という短い叫び声と嗅ぎ覚えのあるにおい。目を開けると、横倒しになったコーヒーのボトル缶と、こぼれた中身、開いたキャップが転がっている。ボトルはころころと転がって、多分落とし主ではないスーツ姿があわててそれを拾ってキャップを閉めた。電車のドアが閉まる。黒い液体は慣性の法則に従って、動き始めた電車と反対の方向へ、触手を伸ばすように細く、長く、延びていく。床に荷物を置いた少女が飛び上がるように荷物を抱えた。
こぼれた液体。
長く、長く、延びていく黒いもの。
流動的な。
夕焼け。
太陽。
真っ黒な、影。
誰の?
ひとつのキーワードじゃ連想ゲームは難しい。でも、それが複数になったら? シナプスは繋がっている。ひとつの細胞が呟いたことばを受けて、次の細胞が新しくことばを吐き出す。それがどこかの中枢に達する前に、ダメだ。あたしは、無理矢理に目を閉じて眠りに落ちる。こみ上げてくるなにかより、疲れた身体には楽な刺激が受け入れやすい。あたしは、眠る。目覚めたときには、すべてが過ぎているといい。
たどり着いた部屋は、殺風景だ。でも、夕方の太陽熱をまだ溜めていて、暖かい。本も、CDも、DVDも、ギターも、常に溢れていた灰皿も、アルコールも、なんだかわからない錠剤たちも、きみに必要だったものはすべて、あたしには必要じゃなかったことを、きみのものがすべてなくなってから、あたしは知った。服と靴は最小限。それだけはふたりとも同じだった。だけどあたしはすべてに於いて、最小限でよかった。きみはそして、それ以外にはすべてに於いて、貪欲だった。
電車の床に流れた黒い液体は、降りる頃には揮発したのか、染み込んだのか、不特定多数のひとたちの靴の底にへばりついたのか、ほとんど残っていなかった。こぼれたコーヒーは残っていなかったけれど、あたしはすべてを思い出してしまった。あたしが、あたしたちがこぼしたすべてを。そして懸念していた、涙腺を刺激する神経は、どうやらすでに死んだらしいことを、今になって自覚した。
手にしていた紙コップを落とした。入れてもらったばっかりのウーロンハイは氷と一緒にコンクリートの床にぶちまかれ、あたしの服と、きみの服を濡らした。かもしれなかった。
「ごめんなさい! 大丈夫? 濡れました?」
「や、大丈夫。いや、大丈夫じゃない。酷いよ」
言いながら、きみは笑顔だった。
「責任とって、今夜うちに来なさい。・・・・・・なんてね。そんな顔するなよ」
「ええと、ごめんなさい」
「どうするの? 責任とってくれる?」
「そういう責任のとりかたはちょっと」
「だよね。仕方ない。じゃ、キスして」
「なんで!?」
きみは笑っていた。悲しいことに、あたしはきみの、笑った顔しか思い出せない。
ホテルに行くと、きみは広いバスタブにいっぱいにお湯を張りたがった。真夏でも。ラベンダーの匂いのする入浴剤と、ヒノキの匂いのする入浴剤と、バブルバスにする入浴剤と、アメニティの三つの小袋を持って悩んだ。
「いいよ、ぜんぶ入れちゃおう」
ぜんぶの匂いの混じったお湯は、どの匂いもしなかった。なんとなく甘くて、そしてお湯を張った後に入れたバブルバスの素は、ほんのちょっとの気泡を湯船に立たせただけになった。
「もったいなかったね?」
あたしはシャワーを止めながら言う。
「これからもっともったいないことするんだよ」
ほら、早く、とあたしの手首を掴んで引き寄せ、そのままのリズムで裸のままお姫様抱っこをされた。うれしくて悲鳴を上げる。
「滑るから暴れるなよ。ほら」
そして彼ごとあたしごと、一緒に湯船に沈む。表面張力ぎりぎりに湛えた39度のお湯が勢いよく溢れ出す。擦りガラスのドアの隙間から、室内にこぼれてしまうんじゃないかと思う。どうも浴室というのは、うまく作られているらしい。すごい音で溢れる温水に、あたしはきゃーきゃーはしゃぐ。
[5]続きを読む
03月18日(木)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る