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たったひとつの冴えないやりかた
by アル中のひいらぎ
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■当事者性の限界
「経験した者でなければ分らない」、これは真実です。けれど、「だから当事者でなければ手助け(支援)ができない」というのは真実ではありません。経験者にしか分るはずがない、というのはアルコホーリック特有の狂った考えであり、役に立たない信念の一つです。だって、別に分る必要なんかないんだし。動機付けだったら、当事者である以外の手段もあります。

当事者であることを頼りに手助けをしていくと、どこかでその限界にぶち当たります。

例えば、ステップ5で棚卸しを聞いてくれる相手は当事者でなければならいのか? 実は、当事者でなくてもまったくオッケーの「はず」なのです。もちろん、棚卸しの目的は性格上の欠点を見つけることなので、その目的が達成されるように、棚卸しを聞く人は、そのための最低限のスキルを持っている必要があります。

そのスキルの本質は、「世間並みの常識」とか「バランスの取れた考え方」とか、「物事をいろんな立場から公平に見る能力」とか、あと「ちょっと批判的な視線」とかでしょう。そして、常識やバランスや公平性なんてものは、依存症の本人に最も足りないものです。だから、当事者じゃないほうが、棚卸しの聞き手としてふさわしかったりするのです。

棚卸しを聞くときに、性格上の欠点を見つけるという点では、非当事者のほうが優れた能力を発揮するでしょう。見たくなかった自分の欠点を映し出す、より正確な鏡を提供できるわけです。

しかし、人間というのは自分の欠点を指摘されると嫌な気分になるし、反論したくなるし、本当のことを言われると無性に腹が立つようにできているのです。だから、つい「当事者でないあなたには分らない」という言葉で拒絶したくなってしまうのです。それは、「あんたは酒をやめたことがあるのかよ!」というのと同じレベルの話で、実にみっともないのですけど。

だから、欠点を見つけるという点ではイマイチだったとしても、当事者同士でやったほうが、指摘される側がまだ受け入れやすいし、非当事者に迷惑かけなくて良いかな、という理由で、当事者同士でやってる、ということなのでしょう。つまり次善の策ということ。

本人同士でやることによって、「俺たち当事者にしか分らない」という閉じた世界ができあがってしまうことがあります。棚卸しであれ何であれ、「経験したものでなければ分らない(はず)」という経験至上主義がはびこり、それ以外のものは、一段低く見られるようになる。そうなると、よりバランスの取れた、より公平な、より常識的な考えが「外」から(=非当事者から)入ってくるのを拒むようになってしまいます。

それでは質の向上は見込めず、劣化するばかり。これが当事者性の一番の限界だと思います。じゃあ、どうすればその限界をぶち破れるのか。それは、閉じた世界ではなく、開かれたものにすること。当事者でない人、つまり家族とか、非当事者の援助者とかの話に耳を傾け、新しいものを手に入れていくしかないのでしょう。

当事者であるということは強みであるものの、同時に限界を作るものでもある。その限界を突破して成長したければ、当事者であることの強みを捨てることも必要になる、ということ。

09月20日(日)
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