ID:19200
たったひとつの冴えないやりかた
by アル中のひいらぎ
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■翻訳企画:AAの回復率(その9)
クリーブランドの初期のミーティングでは、まだ飲んでいるアルコホーリク、あるいはやめたばかりのアルコホーリクは、出席を厳しく制限されていた。それについて、ビルにあてた一九四〇年九月のクラレンスの手紙には、「いくつかのグループでは、入院するか、AAメンバー十人の話を聞き終えたあと、初めてミーティングヘの出席がゆるされる」と書かれていた。当時のメンバーは、三ヵ所の病院と二ヵ所の療養所と「取り決め」を交わしており、それらの施設には、いつも十人から十五人のアルコホーリクが入院している、とも記されていた。
参加資格にかんする以上の条件は、1941年の一月には、やや緩和された。クラレンスによれば、新しい人がミーティングに出席するには、入院をすること、さもなければ五人のメンバーの話を聞くか、あるいは委員会による承認を得るかの、どれかひとつが必要であると「ほとんどのグループ」で定めていたという。
ヤングスタウンでは、新しいメンバー候補が初回のミーティングに出席をゆるされる前に、二組の夫婦による訪問を受けることが通例になっていた。まず、男のAAメンバーが、新しいメンバー候補にAAについての説明をしてから、こんどは、その妻のほうがメンバー候補の妻に話す。「このようにして、新しい人は、おおよその知識を持ってからAAに参加するようになっていたのです」とノーマン・Yが話している。
また、クラレンスは、「いろいろなグループがあり、それぞれが特徴を持っていました。しかし、一般的には、ある人がミーティングに来る前に、その人のやる気を確かめ、心の準備をさせてから、AAの目的と原理についての正しい知識を伝えておく。こうすることで、酒に浮かれている男たちにミーティングを妨害されることが少なくなったのです」と記している。
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候補者がミーティングへの参加が許されるためには、3ヶ月間断酒できたことを示す必要があった。このような事前選択によって、酒をやめ続けることができない人たちは、クリーブランドが報告した93%の成功率の計算には含められなかった。同様の参照が『米国アディクション列伝』にも見られる。28

28. 『米国アディクション列伝』page 132-133 c ウィリアム・L・ホワイト.

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AAがオックスフォード・グループから発展的に独立し、ビッグブック発行に向けて動き始めていた頃、それほど目立ったものではないが、もうひとつ画期的な出来事が生まれていた。将来のメンバーたち(当時は、「候補生」、「ベビー」、「ピジョン」、「フィッシュ」、「注意人物」などと、さまざまな呼び名があった)のミーティング参加資格を決定する規則作りがあちこちのグループで行われていたのだ(後にこのような規則は緩和される)。例えばクリーブランドのいくつかのグループの場合だが、病院で解毒が済んでいるか、10人のメンバーとの面接を済ませていなければ、ミーティング参加資格を与えなかった。デンバーのあるグループは、ステップを終了していなければミーティング参加を許さなかった 41。

Endnote (41): P., Wally (1995) "But, For the Grace of God...How Intergroups & Central Offices Carried the Message of Alcoholics Anonymous in the 1940s" Wheeling, WV: The Bishop of Books.
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クリーブランド地域のグループのやり方は、本質的にはすでに回復を成し遂げ、断酒を継続する能力を証明した候補者を「選り好み」している。彼らはクリーブランドのミーティングに参加を許される前の、見習いあるいは入門期間をおおよそ無事に過ごした。

このような状況を踏まえると、クリーブランドで「93%」の成功率が実現されていたという描写は、初めてミーティングに出席する前にすでに3ヶ月の断酒という十分な結果を得た候補者を事前に選び、それに対して93%の成功率をおさめたと主張しているに過ぎない。

有名になった「93%」の成功率は、実は「失敗に終った」ためにクリーブランドのミーティングに出席を許されず除外されたアルコホーリクの数を示さず、実績を示した好都合な部分集合を候補者にするよう偏らせることで作り出された、どうにも心許ない主張に過ぎなかったのである。


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02月03日(火)
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