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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■誰を、なんのために追悼しているのか、ということ。
ここのところの立て続けの訃報に関して、あちこちで追悼文が書かれているが、若い人の書く文章はやはりどうにも読むに耐えない。本人は気持ちを込めているつもりかもしれないが、どうにも「持ち上げすぎ」なのが気になるのである。亡くなった人を悪く言っちゃイカンという歯止めがかかるのかもしれないが、功罪含めてその人の経歴を俯瞰するのでなければ、歴史そのものを見誤る危険がある。『週間文春』の4月8日号の『本音を申せば』で、小林信彦はいかりや長介について「コントの努力家」以上の評価をしてはいない。いかりや長介自身が、クレージー・キャッツとザ・ドリフターズを比較して、「プレイヤーとしてもコメディアンとしても比べものにならない」(もちろんクレージーの方がはるかに上である)と自伝で語っているのを引いて、しかし、その語っていることの意味が現在のテレビ、新聞のリポーターにはわからなくなっている、と小林さんは説く。まさしく至言で、本気でドリフのことを、長さんのことを思っているのなら、その死に際しても、安易に誉めることなどできないはずなのだ。ドリフターズは「テレビの大衆社会」を築き上げはしたが、喜劇の継承をそこで途絶させた。そのことを一番痛切に感じていたのは長さん自身だったはずである。
中谷一郎の死についても、「風車の弥七はミスキャスト」としっかり書いてくれたのは「裏モノ日記」の唐沢俊一さんだけであった。それが言えるのは、唐沢さんが中谷さんの他の映画を、舞台を見ているからである。恐らく『テアトロ』のような演劇専門雑誌なら、今後中谷さんについての「マトモな」追悼文が載るであろうが、ネットや新聞、雑誌の類の追悼文の9割はクズだろうと断言できる。若い人に限らず、情報の氾濫の中で自ら必要な知識を渉猟する能力自体を失ってしまった人々には、なにが「マトモ」なものであるかも見分けられなくなっているのである。
で、昨日の練習中のことを思いだした。
話題が最近の訃報についてのことになって、悲しいことに鴉丸嬢が「“弥七”が死んだね」と言ったのである。若いんだし、そりゃ「弥七」しか知らんだろうということはわかっちゃいるんだが、思わず「死んだのは弥七じゃねえ!」と言いそうになってグッとこらえた。バカなマスコミの影響を受ければどうしてもそうなってしまうのである。
何でも昨日は、鴉丸嬢、藤本弘と安孫子素雄の区別がつかなくって、しげに本気で怒鳴られたらしい。仮にもマンガ描きなんだから、この二人の区別がついてないってのは、叱られても仕方がないと思うが(小学生時代の私にすら見てハッキリ区別がついていたのに、なぜわからんのだ)、ヘタをすると昨日はしげと私とダブルで怒鳴られるハメになってたかもしれないのである。
「モノを知る」、というのは空気を吸うのと同じで、自然と体の中に取りこんでいくのが一番いいのだが、その空気の中にやたらと混じり物が多いせいで、こういうトンチンカンなことを平然と言ってしまう若い人ばかりになっていくのだ。もちろん、その「混じり物」を現在提供しまくっているのがマスコミであり、もう一つは「学校」なんである。だからいつも言ってるんだが、下らん説教垂れ流すだけの学校なんか、今の半分に減らせって。
今日はしげの仕事が休み。夜、久しぶりに一緒になったので、台所を片付けさせる。
普段は朝、車で職場に送ってもらうときに会話するだけなので、その時に「あとで台所の洗いもの片付けとけよ」と言いつけているのだが、しげは家に帰るころにはすっかり忘れてしまっているのだ。次の日に言っても忘れる。その次の日に言っても忘れる。だいたい、一週間で洗い物をすればいいほうで、たいていは一ヶ月近くかかる。しょうがなく私が料理を作るだけでなく、ちょくちょく洗いものまでしているのだ。どうしてこんなに忘れるのか本人自身が自分のことを理解できないので、ともかく一緒にいる時にこうしろああしろと言うしかない。
でも、目の前でやらせても、やっぱり途中までで止めてしまうのである。
「なんで途中でやめるんだよ」
「洗いもの置くかごが一杯になったもん」
「布巾で拭いて水屋に入れりゃいいだろ?」
「布巾が汚れてるからダメ」
「じゃあまず布巾を洗えよ!」
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04月05日(月)
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