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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■すっ飛ばし日記/魔界な男たち
 しげがどうしても一緒に行ってくれそうにないので、一人でキャナルシティまで『魔界転生』を見に行く。帰りは1時間ほど歩きになるが、まあ仕方がない。
 一見して、誉めたい部分と貶したい部分の落差がはげしいので困った。前回の映画化のように、「若山富三郎の殺陣以外は全部クズ」ってくらいにハッキリしてりゃものの言いようもあるのだが。

 ともかく、原作を映画化するということはどういうことなのか、とか、そんな基本的なところから考察しだしたら、もう膨大な分量になってしまう。これはもう、説明不足、舌足らずになることは承知の上であえて乱暴なモノイイをさせてもらおう。

 山本弘さんの「SF秘密基地」では、山本さんご自身が天草四郎について「前作の沢田研次の方がマシだったのではないか」、と書いている。
 トンデモない話で、あんなオッサンのどこが十七歳の少年だというのか。映画のウソにしたって、程度というものがあるのである。かといって、今度の窪塚洋介がいいと言いたいわけじゃないのだが。
 そもそもクボヅカがどうのという批評自体、この映画に関してはあまり意味をなさない。主役はだいたい天草四郎ではない。たとえ脚本家や監督が、窪塚洋介を主役だと認識し、そのつもりで演出していたとしてもである。だって、元々の原作にそういう要素がないのだから、どんなに改変を加えようが、四郎が主役になれるはずないじゃないの。
 「魔界転生」というアイデアは、それまでの風太郎忍法帖の忍法・秘術とは性格が違う。それまでの忍法はあくまで登場する忍者たちの持つ「能力」としての忍法であった。しかし本作の魔界転生の秘術は、あくまで「裏方」にすぎないのである。
 映画版ではカットされているが、原作では島原の乱の実在の軍師、森宗意軒の秘術として「魔界転生」は設定されている。
 天草四郎、荒木又右エ門、田宮坊太郎、宝蔵院胤舜、柳生如雲斎、柳生但馬守、宮本武蔵の七人の魔界衆が蘇り、柳生十兵衛と戦うことになるのだ。だが、しょっちゅう主役のように描かれる四郎は、確かに森宗意の後継者ということになってはいるが、あくまで魔界衆の一人。しかも、元々剣豪ではないために、仕方なく「忍法髪切丸」という妖術の使い手として十兵衛と戦うことになる。こうでもしないと、たかが美少年ってだけでは「十兵衛と釣り合いがとれない」のだ(当たり前だね)。なのに、物語の中盤であっさり十兵衛に倒されてしまうのだから、全く、何のために出てきたんだか。
 原作のメインはあくまで、歴史上ではありえなかった、十兵衛と、剣豪たちの死闘。
 いや、宮本武蔵対柳生十兵衛を描くこと。
 これがこの物語のキモなのである。
 十兵衛が一人、また一人と魔界の剣豪たちを倒して行くのは、それぞれの戦いも圧倒的に面白くはあるのだが、あくまで武蔵を倒すための布石である。ラストは巌流島の決闘の再現。これを「ラストシーンとして」描かない『魔界転生』は『魔界転生』ではない。
 途中まで、映画は原作の精神を生かすように描かれて行く。
 荒木又右エ門は十兵衛と嬉々として戦う。右腕を飛ばされれば、四郎に向かって昂然と「右手をくれ」と言い放つ。自分の命令を無視するかのような又右エ門に四郎が自死を迫ると、「貴様のためには死ねん」と嘯く。
 たとえ四郎の方に魔界衆たちの生殺与奪の権限があろうとも、「剣豪」としての又右エ門たちのキャラクターを描いて行けば、天草四朗は、本人がどうあがこうと彼らを生かすための裏方、ただの脇役に過ぎなくなってしまうのである。
 精神的優位は常に魔界衆たちにあるし、そうでなければ物語は面白くならない。前作の映画化ではカットされた、柳生但馬守対宝蔵院胤舜。ともに十兵衛との戦いを望み、それが果たせなかった二人。この二人の戦いを描くことにどんな意味があるか、脚本家は、監督は考えなかったのだろうか。
 宝蔵院胤舜が「魔界もいいものぞ」と柳生十兵衛に嘯くシーンまでは、私はこの映画の成功を疑わなかった。胤舜の問い掛けに無言で答える十兵衛は、既に人の身でありながら、自らも精神的には魔界衆であることを肯定しているのである。

 ……なのにねえ、次にねえ、脈絡もなくさあ、いきなり対宮本武蔵が来ちゃうんだよ。

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05月16日(金)
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