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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■合宿落穂拾い・その他盛り沢山/『ナジカ電撃作戦』2巻(田代琢也)
 その結果、西洋では「親子の絆」というものが無条件に保証されるようになったが(おそらくは中国・朝鮮などのアジアもそうだ)、日本では、親は親として範を示し、子は子として自らが「役に立つ」存在であることを明確な形で提示せねば簡単に廃嫡の対象となった。日本人の親子間には、そういう冷徹な現実が常に日常的な問題としてあったのである。親による子の「勘当」という概念が、その縁切りの理由を「子としての不行跡」に求められていたのも、その顕著な例であるだろう。
 親子が血で血を争う物語は、日本では特に珍しいものではない。
 親が子を虐待するニュースが頻繁に流れるようになって、マスコミはさも昔の親子が温かい家庭を築いていたような幻想を撒き散らしているが、そんなのはウソである。昔の親は自分の意に染まなければ簡単に子供を虐待していたし、それが子供の命の危険に至ることも決して少なくはなかった。私だって、酔った親に殴られ蹴られ、鉄板を投げつけられ、殺されかけたことは数えきれないほどある。でもそれが当時の「フツー」であったのだ(そうでないと思ってる4、50代の親は、過去の記憶を忘れているか、その意味を理解していないのである)。これで親子の間に通常の意味での「愛情」が生まれると考えるのは脳天気に過ぎるというものだ。たとえ親が自分を不必要としていても、そこに絆を求めなければならないところに、子の苦しみが常に存在していたのである。
 日本のアニメーション作品にはどうしてロボットものが多いのか、しかもそのロボットが心を獲得して行くパターンがなぜ多いのか(巨大ロボットものにすらその特徴が随所に見られる)、さらには心を持ったロボットが自らの存在異議について悩むパターンがいかに多いか、これは日本人の持つ「子殺し」の記憶に対する贖罪の意味が強いのではないか、と思うのだ。
 『アトム』しかり、『ジャイアント・ロボ』しかり、『キカイダー』しかり。もしかしたら我々は、たとえそれが本当のわが子であったとしても、作ってはいけない子供を作ってしまった罪悪感から子供を育てているめんがあるのではないか。
 リラもまた、アニメ版ではナジカに反逆し、物語を終えるのだが(おお、やっと『ナジカ』の話に戻った♪)、初めリラを拒絶していたナジカが少しずつリラに人間らしさを認めていくのに反比例するように、ナジカを慕っていたリラはやがてナジカに対立するようになる。リラを初め、ヒューマリットが「愛玩用」として開発された側面があることはそれとなく暗示されているが(今巻ではリラがまさしく「アイドル」になる話もあるぞ)、自らが人間の「オモチャ」であったことを自覚したとき、「作られた子供たち」は今度は生みの親である人間たちを殺す物語を自らの道として選択するようになるのである。まあ、マンガの中のリラはまだひたすらボケててかわいいだけだけど。
 この血塗られた伝承を断ち切るのには「子をなさない」ことしかありえないようにも思うが、もしかしたら現在の少子化現象は、日本人の遺伝子がこれ以上の殺伐とした親子関係を抑制しようと考えた結果なのかも。……なわけないけど、これ、そのモチーフで小説書いたら結構面白いSFになりそうだな(^^)。


 あ、あと今日見た『ヒカルの碁』はまたもや作画レベルが落ちてました。総集編やった意味ないぞ。

10月16日(水)
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