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無責任賛歌
by 藤原敬之(ふじわら・けいし)
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■でもちょっとだけ長く書きました。/『雨天順延 テレビ消灯時間5』(ナンシー関)
 父がイネムリし始めたので、十時過ぎに辞去。帰り際に父が「(来てくれて)ありがとね」と言うが、息子が盆に帰ってくるのが感謝されることかい。なんか日頃よっぽど親不孝してると思われてるな(-_-;)。


 ナンシー関『雨天順延 テレビ消灯時間5』(文春文庫・420円)。
 本文よりも興味を引いたのは、巻末の大月隆寛の解説である。
 故ナンシーさんへの感情過多で、自分の書いた追悼文に勝るものはないと断言し、他の追悼者たちを全て「わけのわかんねえ追悼文垂れ流してたひと山いくらのボンクラ共!」と罵倒する、その過激さだ。
 これを読んで、その傲慢さにムッとする人も多分いるだろうし、またかえってナンシーさんの評判を落とすことになりはしないかと懸念される方もいらっしゃるだろう。実際、いとうせいこうさんの追悼文の方が、はるかにナンシーさんの喪失の事実をこちらにヒシヒシと伝えてくれる。それに比べれは大月さんのはナンシーさんを私物化しようとしているだけのただの駄文だ。
 にもかかわらず、ナンシーさんに関してはこういう「駄文」こそがもっともっと書かれねばならないと思う。
 「自分だけがこの人のことを本当にわかっている」というのはもちろんただの思い込みだ。妄想と言ってもいい。しかし、そんな思いを持つファンが誰もいないような作家に、いったい何の価値があろう? 「自分こそが一番のファン」と自負する思いを持つ人間が多いことがすなわち、その作家にとっての最大の勲章なのだ(作家本人にとっては迷惑な場合が往々にしてあったとしても)。
 大月さんの言に腹を立てた人は、「いいや、大月、おまえこそナンシーさんのことがなにもわかっちゃいない。真のファンはオレだ」と声高に宣言すればいいのだ。静かに追悼するばかりが能じゃあるまい。作家は、作品は、読まれ、語られてこそその命脈を保つのである。

08月13日(水)
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