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【保存版】光玉の勲章はインチキ勲章
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■(fake 007 岡田光玉の真実)
立教時の近辺を取り巻く環境からも、意図的に作られた教団で有ることは確かに思える。
本山建設までの間には、組み手に掛かる負担は相当なものであり、分裂した双方の権力争いに、組み手達が巻き込まれた形にもなっていたようだ。
崇教真光の2代教しえ主、恵珠に至っては、宗教的知識に関しては皆無に等しかった。
光玉の死後、恐怖に怯えていた恵珠を周囲が持ち上げ煽り、見事にお登りさんに仕立て上げたと言われている。
信者数を稼ぐ為の、苦肉の策と言うところだろう。
残された分裂派同士で、適役を奉り上げたと言う事のようだ。
ここまで来ると、下らない権力争いに気付く組み手達が、更に分裂を始めた。
分裂に関しては、現在も続けられているようで、各道場レベルでの分裂騒ぎも絶えない。
当然、月始祭や大祓祭ではゴーストライターが存在し、光玉の録音テープに続いて、恵珠の棒読み教示には呆れたものだった。
隠しようのない事実が明らかにされる一方で、深く洗脳した信者達が教団を擁護する事まで計算に入れていたとも思われる。
過去の教団関係者が口を割る事で、明るみに出た情報を覆す事は出来ないだろう。
それらを如何に知られる事なく運営して行くかが、崇教真光の教勢拡大に繋がると思う。
それらを知りながらも、残れる組み手も居るようですけど。(笑)



「無私の愛よ永遠に」平成二年刊 −たま出版、瓜谷社長の証言−

たま出版に瓜谷社長は初期の真光組み手であり、光玉のとの経緯を「無私の愛よ永遠に」平成二年刊に於いて書き残している。

(瓜谷氏の超宗教・超宗派への道の提言に対して)
以下引用

〔前略〕

顕著な真光の業の実績などにより信者が増えるに従い、やはり通常の宗教セクトと同じような団体を形成し、数ある新興宗教団の一つとしてひたすら信者数を増やすという量的拡大の道を歩み始めた。

間もなくS界真光文明教団という麗々しい名称の下に宗教法人の認可が降りた。 そしてしばらくは世田谷区にある自宅兼事務所で布教活動を行なったが、本部になる殿堂の建立の計画がされ、東横線沿線の格好な土地が求められ、その建設が始まった。 その着工に先立つ地鎮祭の時、私も妻もその式に列席した。 式の途中、何故か物凄い突風吹き、周囲に張られた式幕が風で吹き飛ばされそうになった。 妻はこの余りにも強烈で、突然の風が、何かの予兆だと言い、本教団の前途が波乱に満ちたものであることを示すものと私に語った。

そしてこの予言は的中した。 本殿ができたのが昭和四十三年三月、その後教団自体は大いに伸びたが、初代教主O師(光玉の事)はその六年後、昭和四十九年六月、この本殿で、突然の急死をしてしまった。 その直後から後継者をめぐって二人の人物がそれぞれの正当性を主張し譲らず、遂に裁判まで持ち込まれ、その決着に五、六年を要した。 その結果一方が名称を変え、同じ教義の下に、同じ初代教主をいただいて、宗派活動をするようになり今日に至っている。 間もなく正式名称継承した方の教団から、第三代を名乗る人物が現われ、別派をつくり三つの教派に分裂してしまっている。

思うにこれはあらゆる宗教セクトが陥る宿命的な運命である。 宗教の時代はとっくに終わっているのに、現世的な名誉や財産に捉われ、神の経綸を説きながら、自らはそれを実践できないでいるこの悲喜劇が多く繰り返されている。 ああ何と悲しむべき現象であろうか。

この立派に殿堂が建つ前後よく妻と語りあったものである。

「これからの人を教化する宗教あるいは精神運動の場はすべからく幕舎でなければならぬ」そのように神(妻の)から授かったと彼女は何度も私に語ったことがあるが、私もその通りだと思った。 こういう点では不思議なことに、二人は必ず意見が一致し、何の葛藤もなくお互いの心中を語りあうことができた。


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04月30日(月)
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