ID:104863
G*R
by K・カヲル
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■地上の縁からのぞき込むと深遠の青が底もなく 3
 夏期休暇直前の教室は締まりなくざわついている。
 どこか弛緩した空気が流れ、誰も彼もが集中できていない。これから更に鋭くなる太陽の光に急かされるのか、授業中も休憩中も、どこかしら皆、落ち着きがなかった。
 授業が終わり、乱菊は窓から出ていこうとするギンの姿を見て慌てて立ち上がった。
 これまでの提出物で未提出の物があった場合、休暇が始まる前に全てを提出するように学生達……主にギンが言われていた。ギンはそれらの半分以上を未提出のまま放置している。提出した分さえ、乱菊やリンドウらが急かして出させたものだ。残りのそれらを回収するのも級長の役目らしく、乱菊はそれを教師から頼まれたときには不満げに眉を寄せた。ギンがおとなしく終わらせるとは思えない。案の定、ギンは期限になっても乱菊にそれを渡すことはなかった。
 乱菊はギンを呼ぼうとして口を開け、そして動きを止めた。ちょうど、三人は傍におらず、乱菊がギンを呼ばなければならない。乱菊はまだ心の準備をしていなかったし、呼ぶ練習もできていなかった。
 市丸君。
 その一言が違和感を伴って乱菊の喉の奥で引っかかっている。市丸君市丸君。乱菊は頭の中で繰り返し練習をすると、口を開けた。
「ちょっと待ちなさいよ、市丸……ギン!」
 するりと、呼び慣れた呼び方が続けて出た。
 ギンが、長く一緒にいた乱菊でもなかなか見たことのない程の、驚いた顔をして振り返った。窓枠に片足をかけたまま、こちらを振り返った格好で動きが止まっている。細い眼がかすかに見開かれていて、緋色の瞳が乱菊を見ていた。
 そして周囲も動きを止めていた。だいぶ馴染んできたとはいえ、ギンのことを恐れている人間の方が多い。ギンを呼ぶ人間も少なかったし、呼び捨てにするのは、市丸と呼ぶツワブキと数人の男子くらいだった。
 乱菊は周囲の反応には目もくれず、ギンに近寄った。ギンの顔を見て、乱菊は可笑しくなった。こんな崩した表情のギンを見るのは久しぶりだった。乱菊は満足げな笑みを浮かべた。実際、自力で呼べたことに乱菊は満足していたし、フルネームで呼ぶことのほうが、市丸君と呼ぶことより違和感がなかったこともあった。
「市丸ギン、あんた、宿題を今日中にあたしに渡せって言ったでしょう」
「……寮に忘れてしもた」
 ギンは驚いた顔のまま、呟くように言った。乱菊は眉をひそめた。
「なら、ここで待ってるから、取りに戻って頂戴。……どうしたのよ」
 乱菊が追い立てるように手を振っても、ギンは片足を窓枠にかけた体勢のまま固まっている。そして、僅かに声を震わせて、
「何なんや、その、市丸ギンて」
と言った。今度は乱菊が固まった。それを見て、何かが弾けたように突然、ギンが笑い出した。片足はそのままに、腹を抱えて、ギンは笑いながら苦しそうに体を折り曲げる。
「……笑うことないじゃない」
 乱菊は、急激に不機嫌になって呟いた。

 腹が捩れるとはこういうことかと身に染み入るように実感しつつ、ギンは爆笑していた。乱菊がどんどん不機嫌になっていくのが手に取るように分かるが、それでもギンの笑いは止まらない。
「…普通……市丸君とか………あるやろ」
「あんたに君付けなんて贅沢よ」
「なら、ギンちゃんとか」
「ちゃん付けなんて冗談じゃない」
 ムキになって言い切る乱菊の頬は少し赤い。それを見てギンは堪えようもない幸福感を笑いに誤魔化して、更に笑い続ける。
 自分だって戸惑って、結局、「級長さん」と役職で呼ぶことで自分を誤魔化している。乱菊がギンを呼ぶときにどれくらい戸惑っているか、ギンには想像に難くなかった。
 けれど、そのうちに乱菊は自分のことを、他人行儀で呼ぶだろう。
 君付けで呼ぶ声などギンは想像も出来ない。それが二人の、自分が敢えて取った距離を具体的に示すようで、望んだこととはいえ、ギンは苦しかった。
 でも、まさかそうくるとは。
「……頭っから、終いまで全部言うか、普通」
 笑いすぎて脇腹が痛い。目尻に涙が浮かんだまま、ギンは横目で乱菊を見る。
「他にどう呼べって言うのよ……」
 怒っているのか困っているのか、赤い顔をして眉をつり上げて乱菊は小さく言った。

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06月05日(月)
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