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ケイケイの映画日記
by ケイケイ
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■「怒り」


140分超あるので、些か怯みながら臨みましたが、全く杞憂に終わりました。三つのお話が同時に進行され、真犯人を推察するミステリー的な部分より、それぞれに哀しみを背負った「怒り」を感じ、深い人間ドラマが描かれます。素晴らしい力作でした。監督は李相日。

東京で夫婦が惨殺され、殺害現場には「怒」の文字が残されていました。れから一年、犯人は整形して逃亡しているとされ、予想された顔写真が出回り、操作が続けられます。その頃、千葉では田代(松山ケンイチ)、東京では大西(綾野剛)、沖縄では田中(森山未来)と、犯人に似た素性の知れない三人の男が現れ、それぞれ周囲の人間を巻き込んで行きます。

犯人がわかっては面白味が半減すると思ったので、原作未読、いつも以上に真っ白で臨みました。本編を観てまず感じたのは、予告編の事です。ミスリードしていたり、本質を付いていたり、あー、この台詞、ここだったんだと思ったり。実に上手く作ってありました。

なので千葉編で愛子役宮崎あおいが、元風俗嬢と言う汚れ役でびっくり。その上、「変わっている娘」と父親(渡辺謙)は言いますが、童女のようなその様子は、軽度知的障害なのだと思いました。以前精神科に勤めていた時、想像以上に知的障害の患者さんが多い事、そして障害の程度には格段の差があり、一見知的障害だとは、ほとんどわからない人も多くいた事に、当時びっくりしました。愛子は、そのまんま彼女たちです。宮崎あおいの演技に、まず感嘆しました。ずっと昔、和久井映見がドラマで知的障害の女性を好演していましたが、今思えば、あの役柄はもっと重度の障害でした。軽度知的障害は、境界線が曖昧なため、演じるのは相当難しいと思います。

愛する人を信じられるか?もテーマのように言われていますが、正直素性の知れない知り合って1〜2か月の人を、信じろと言う方が無理がある。その事よりも、何故信じきれなかったのか?その理由に、それぞれの内なる自分に向けての怒りがあるように感じました。

千葉編は元風俗嬢で障害のある自分では、訳ありの田代でしか釣り合わないと思い込む、愛子の卑屈な感情。そして大切に愛して育てた娘に、その思いを刷り込んでしまった父親。毎日仕事して遊んで、スケジュールをいっぱいにしていないと、不安で押しつぶされたそうになっている優馬(妻夫木聡)。ゲイの彼は、ゲイコミュニティーではリア充と呼ばれるような生活ですが、一旦その枠から出ると、極端に臆病になる。それは口では虚勢を張っていますが、ゲイであることがバレるのが怖いのでしょう。その心が、自分に安息の日々を齎せてくれた大西を遠ざけてしまう。それぞれ、怒りは自分に向けたものです。

沖縄編は少し違います。沖縄と言う土地柄を反映して、米軍の横暴さ、基地反対問題を盛り込み、その中で純粋な心で、正しい大人になろうとしている泉(広瀬すず)と辰哉(佐久本宝)を映します。泉の怒りは、諦めてしまった自分への怒り、辰哉の怒りは、信じてしまった怒りです。

三人の男たちは、それぞれ最後までミステリアス。彼らもまた、怒りを抱え、その怒りと共に逃亡しています。犯人は私が一番同情できない怒り持った男でした。理解は出来ますが、これを社会の犠牲とは言って欲しくない。

何故ならこの作品で描かれたこと全てが、自分の日常に置き換えて考えられる事だから。愛子は、私は逃げなかったと思います。いつも小学生がするような髪留めを、好んでしていた愛子ですが、ラストに見る彼女には見られませんでした。髪留めが外れた事は、彼女の成長の証しなのでしょう。いじめ等、私は逃げていい事もあると思っています。しかし立ち向かう事は、自分を成長させる事ではあるんだなと、愛子を見て感じました。

だから、勝ち負けなどないのだと思う。例え逃げても、自分の成長は勝ったと同じ。犯人は、一杯の冷たいお茶の思いやりを、自分を見下したと取りました。そして見当違いの怒りを相手に向ける。この見当違いの感情が負けなのだと思う。


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09月19日(月)
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