ID:10442
ケイケイの映画日記
by ケイケイ
[927534hit]

■「最愛の子」


実話が元の作品。普遍的な子を思う親の愛情、親を慕う子の気持ちを軸にしながら、中国の様々な社会問題に切り込んだ社会派作品。私は傑作だと言い切って良いと思います。監督はピーター・チャン。

2009年7月18日、中国・深圳。寂れたネットカフェを経営するティエン(ホアン・ボー)は、三歳の一人息子ポンポンと二人暮らし。妻ジュアン(ハオ・レイ)とは離婚して、親権はディエンが持っていますが、ジュアンは仕事も順調で、再婚して裕福な暮らし。ポンポンの養育権も要求しています。そんなある日、遊びに出たはずのポンポンが誘拐されてしまいます。憔悴しきる元夫婦。様々な手を尽し、三年後奇跡的に深圳から遠く離れた貧しい農村で見つかったポンポンは、実の親を忘れており、育ての親ホンチン(ヴィッキー・チャオ)から離される事に、泣き叫びます。

中国は一人っ子政策で知られていますが、跡取りとして男子が望まれるため、女子が生まれると捨てられ、男子は人さらいにあい、人身売買が多発しているそうで、年間誘拐数は20万人にも及ぶそうです。ホンチンは不妊症で、一年前亡くなった夫から「お前のため」と、他所の女性に産ませた子だと言われ、それを信じてポンポンを育てていましたが、実際は夫が誘拐してきた子。そして捨て子だった女子の赤ちゃんも拾い、ポンポンの妹として妻に育てさせています。

前半は気が狂ったように、子供を探す元夫婦の姿が描かれます。これが我が身に起ったら?と、同情と言うには生ぬるいような感情が、怒りと共に湧き上がりました。報奨金目当ての詐欺の電話、貧しさから我が子をポンポンと偽り、ティエンに育てさせようとする親、巧妙な手口で誘いだし、ティエンから金を強奪しようとする者。人の弱みに付け込む輩に憤懣やるかたない気分になります。その中で私がとてもとても切なかったのは、誘拐された親同士の自助グループの存在です。

自分の気持ちを吐露する人々の様子に涙するも、一種カルト的宗教団体のようなムードを漂わせるグループ。歌を歌い、シュプレヒコールを繰り返す彼らに、当初は怖いような感想を持ちましたが、観ていて段々哀しい気持ちに。こうでもしないと、子供を見つける希望が失われるのです。次の子供を持つのは敗北でもある。妻の新たな妊娠を機に、次の子を持つ決意をした父親の、浚われた子への罪悪感に苛まれる痛恨の涙が、今思い出しても涙が出ます。

子への愛と言うと、どうしてもクローズアップされるのは、母親です。しかしこの作品は、不自由な貧しい暮らしをしながらも、ポンポンを手放さなかったティエンを始め、子を探す為、教師と言う安定した生活を手放した父親、そして上記の父親の様子など、父性と言うより母性に近い、本能的な子へのありったけの愛が描かれています。これは中国男性の特性なのかもしれませんが、本来どの父親にも備わっているのだろうと、少なからず感銘を受けました。

やっと夢にまで見た我が子を抱きしめるのも束の間、ポンポンは両親を忘れ、警官に「この人たちを捕まえて」と訴えられる。さらにはホンチンを探し求めるポンポン。本当に無情です。子が見つかっても、まだ試練が待ち構えている。ポンポンが初めておずおずジュアンの手をつないできた時の、ジュアンの喜びに満ちた涙が忘れられない。

後半は、慈しみ育てていた我が子二人を奪われた、ホンチンの育ての親の愛情が描かれます。捨てきれぬポンポンへの愛と、彼女から取り上げられ、今は施設に預けられている妹を養子にしようと、奮闘する姿が描かれます。彼女も言わば被害者。しかし知らぬ事とは言え、育てていたのは誘拐された子。夫は誘拐犯。彼女が妹を奪還出来る道理はありません。可哀想には思うのですが、実の親ほどには、同情も共感も湧かない私。無学な農民である事に見下されても、猪突猛進なホンチンの暑苦しさに、次第にイラついてきました。しかし自分の持てるもの全てを投げ打つ、捨て身の彼女のある行為を観て、次第に思いが変化していきます。


[5]続きを読む

02月07日(日)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る