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ケイケイの映画日記
by ケイケイ
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■「ペコロスの母に会いに行く」


主演のみつえ婆ちゃんを演じる赤木春恵が、畳の上で使う座高の低い椅子に座る姿が映った瞬間、私は心の中で「おばあちゃん(姑)!」と、叫んでいました。高齢になると膝が痛み、正座が出来なくなるので、多くのお年寄りは、畳で使用する、この手の椅子に座るのです。84歳で亡くなった姑の定位置は仏壇の横。赤木春恵と姑は全然似ていないし、お陰さまで老化はあっても、姑は認知症の兆候は、亡くなるまでありませんでした。でもあの椅子に座る姿は、私のお義母さんなのです。こうなるともういけない。あの姿、この姿と姑と重なり、55歳で亡くなった私の母まで脳裏を掠める始末。認知症を扱ってもカラッとしていてコメディ仕立てなのに、最初の方から終わりまで、泣きっぱなし、そして笑いっぱなしでした。多分私の今年の邦画NO・1の作品。監督は森崎東。

バツイチのサラリーマン兼漫画家兼歌手のゆういち(岩松了)。父親(加瀬亮)亡き後、認知症の状態が良くない実母みつえ(赤木春恵)の面倒をみるため、息子のまさき(大和田健介)を伴い、東京から生まれ育った長崎に帰ってきました。母の症状は次第に進み、ケアマネと相談した結果、みつえをグループホームに入居させる事に。息子として不甲斐ない気持ちを託ちながら、再々ホームを訪れるゆういち。そんな事はつゆぞ知らぬみつえは、過去と現在を行ったり来たりしています。

実母が老いる前の55歳で亡くなり、舅は67歳で脳梗塞を患い障害を負いますが、認知症の兆候はなく74歳で亡くなり、実父は86歳で健在ですが、これが娘の私より頭が冴えてんじゃないか?と言う可愛くない爺さんで、現在昔のお妾さんに面倒をみてもらっていて、電話くらいでほとんど会う機会がありません。私が一番身近に親の老いを感じたのは、近くに住み、再々交流のあった姑でした。

あのシーンこのシーン、どれもが微妙に違うのに、思い起こすのは姑との出来事ばかり。60過ぎた息子の帰りを外で待つみつえに、「危ないけん!」とゆういちが言うと、「ごめんね、怒っとる?」と聞くみつえ。「怒っとりゃせんよ」と言いながら、母の手を握り抱きかかえるように家に向かう息子。舅の葬儀の時、あれやこれや口出しする外野に、堪らなくなった姑は泣き出しました。その時私の夫は、ゆういちと同じように母親の肩を抱きながら、「お母ちゃんは何も心配せんでええで。兄ちゃんと俺がついてるからな!」。あの時の夫は、本当にカッコ良かったなぁ。

過去と現在が混濁するみつえは、しきりに「お父さん、お父さん」と言います。私は幸せな夫婦生活だったのだなぁと思っていたら、何とお父さんは酒乱で給料日には全て酒代に消えるような人。殴られる場面やら、依存症傾向から、神経を病んでいる場面まで出てきます。しかし空振りばかりでも、一人息子のゆういちを心から思う回想場面、そして家族を愛した晩年が語られて、みつえは苦労はたっくさんしても、不幸ではなかったのだなぁと思いました。こんな過去があったのにと、その後夫を受け入れ、恋しがるみつえに、心底感動しました。

しかし苦労の波に押しやられ、自分は不幸だと思う瞬間は誰にでもあります。夜中の防波堤に立ちすくむ、若きみつえ(原田貴和子)と幼いゆういち。この瞬間は幼い私にもありました。二歳前くらいだった妹をねんねこでおぶった母は、私の手を引き、夜の道を当て所なく歩いていました。どこに行くのか、怖くて聞けない私。姑にも同じ事があり、幼い義兄の手を引き、赤ちゃんの夫を背負い、夜の線路脇をとぼとぼ何時間も歩いたと言うのです。「お母ちゃん、あの時死ぬつもりやったと思うんや」と、義兄は言います。

みつえが思い留まった理由は、強い運命の糸を感じる出来事です。私の場合は、まだ口の回らない妹の「お母ちゃん、おうち帰ろう」でした。姑も二人の息子だったと思うのです。慟哭するみつえの姿は、私の二人の母でもありました。人はこうして、何か奇跡的な事や、愛情という名の血のしがらみにより、踏ん張ったり救われたりするのです。


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11月22日(金)
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