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ケイケイの映画日記
by ケイケイ
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■「わが母の記」

昭和の文豪・井上靖の自伝的小説の映画化です。前評判通りの情感豊かな作品で、母と息子の愛だけではなく、親子の終焉の在り方にも言及した秀作だと思います。所々気になる点はありますが、それはまた後程。監督は原田眞人。
流行作家の伊上洪作(役所広司)。妻(赤間真理子)と三人の娘に恵まれ、仕事も順調です。しかし幼い時の一時、母(樹木希林)と離れて暮らした事で、自分は母から捨てられたと言う思いがぬぐえません。父が亡くなり、上の妹志賀子(キムラ緑子)が主だって母の面倒をみて、伊上や下の妹桑子(南果穂)も手伝います。老いてきた母は、認知症の傾向が段々と強まってきます。
昔の作家さん一家は、家族総出で作家を支えたのですね。珍しい風景が画面で描かれます。今ではメールやパソコン、FAXなど駆使して時間が短縮出来るものも、人海作戦。妻は段取りに大忙しです。昔亡くなった森瑤子のエッセイに、自分は主婦なので、締切が近付き家事がおろそかになると、夫がとても機嫌を損ね、とても不満に思っていたが、ある時男性作家(名前は失念)の後ろ姿を観たとき、家族を背負って書いている人の厳しさがひしひしと感じられた。それに比べれば自分の苦悩など如何程の事かと、割り切れることが出来たと書いていました。伊上家を見ていると、全くその通り。作家=家業なのです。三女(宮崎あおい)は、家族を小説のネタにする父親が不満ですが、父としてはこれは生業、家族を食わせて行くためには、当たり前の事なのです。そして書かずにはいられない、作家の業も感じるのです。
娘には大声張り上げ怒鳴る伊上ですが、母には絶対声を荒らげません。昭和とはそう言う時代だったのでしょうが、そこにわだかまりを託つ伊上の心も読み取れます。母にしても、男子は一人なのですから、もっと愛情を示しても良いものを冷ややかです。離れていたのは伊上が五才から中学に上がるまで。子供が物心つく時から多感な年頃で、親子関係に水をさしているのがわかります。
認知症と言う言葉は最近のもので、この時代は痴呆と言う言い方が一般的だったと思います。介護サービスも無い時代、老いた親を見るのは子供の務めであったでしょう。伊上家は所謂インテリのお金持ち。姉妹の会話にインテリ臭が多少あったり、豪華なホテルで母の誕生日を施すなど、ちと庶民からは贅沢だなと感じる場面があり、ともすれば感情移入を削がれるがちです。そこを救うのは、樹木の絶妙の演技。子供を罵ったり暴力的になったり、認知症の行動は、あの母が・・・と子供を悲しませる事が多いのですが、その辛さや、やりきれなさも感じさせながら、上手くユーモアと愛嬌に感じさせます。台詞と演出に品が良いのも好感が持て、観客の生活レベルまで落とすではなく、同化して観ることが出来ます。
母の介護を軸に描かれる、伊上家の日常。長女が結婚したり次女や三女が結婚したり、年月を重ねながら四季の移り変わりを描く風景が美しい。何故伊上が母と離れて暮らさなければならなかったのか?その秘密の明かされ方には、少々疑問が。これは親子間で、いくらでも聞けた話です。しかしそれを後回しにさせるほど驚愕したのが、妻の言葉でした。いやこの奥さん恐いわ。確かに一理ある。この妻は作家と言うものの本質を見極めて、貞女として振る舞いながら、実は家庭の轡を引っ張っており、馬が伊上、その上に乗る騎手が奥さんだったのですね。
でも私なら出来ないな。夫が苦しんでいるなら、少しでも役に立ちたいと思うはず。そこには私にも息子がいるから、と言うのがあるのでしょう。伊上家は三姉妹、我が家は三兄弟。男子を生むと、無意識に夫を通して息子、息子を通して夫を観る時があるのです。家族皆が失踪したお婆ちゃんを優先して、伊上に探しに行けと言った時、「三女に任せたら」と本音を言ってしまい、そして無視された妻。どこかでお釣りはくるものです。そう思うと、ちょっとだけこの奥さんも理解が出来そう。
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05月03日(木)
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