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ケイケイの映画日記
by ケイケイ
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■「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」


胸が苦しい心が痛い。お前は自分の子供だけがまともに育てば、それでいいのか?と、スクリーンから恫喝された気がします。辛くて辛くて、ラストの安藤サクラの呆けた顔を観ながら、さめざめ泣きました。紛れもなく、これも今の日本の「青春」なんだなと感じます。監督は大森立嗣。

幼い時から同じ孤児院で育ったケンタ(松田翔太)とジュン(高良健吾)。二人の仕事は壁を電動ドリルで壊す「はつり」と呼ばれるもので、厳しい労働条件なのに、低賃金の肉体労働です。ケンタは職場の先輩裕也(新井浩文)から虐めを受けており、毎月給料もピンハネされています。ある夜ナンバに出た二人は、カヨちゃん(安藤サクラ)と出会い、ジュンは彼女の家に転がり込みます。とうとう我慢しきれなくなったケンタはジュンを誘い、事務所と裕也の車を滅茶苦茶にし、会社の車と単車を盗んで、カヨちゃんも道連れで逃亡。三人はケンタの兄カズ(宮崎将)が収監されている、網走の刑務所に向かいます。

格差社会が叫ばれて久しいですが、幼い時のまま、底辺から抜け出せずにいる若者たちです。子供の頃は孤児院と言う「居場所」があった彼らですが、成人した今、辛うじて自分の食いブチは稼いでいるものの、自分の本当の居場所・住処は見つけられない彼ら。

恵まれない出自にもめげず、社会的に成功した人たちの出世話が日向なら、ケンタとジュンは日蔭。しかし日蔭の青年なら、裕也のようにやくざとの付き合いがあったり、そんな姿を想像しがちなのですが、彼らはそうではありません。ひたすら底辺を這いつくばって生きている。一生懸命でもなく、ただ淡々と境遇を受け入れているような日々。言葉づかいも、感情が高ぶり激昂する時以外はとても優しく柔らかい。乱暴さも暴力もなし。賭けごともせず大酒も飲まず。働けど働けど貧しい。閉塞、鬱屈、抑圧、貧困、虚無。そんな言葉に囲まれた生活です。

「ねえカヨちゃんってバカなの?ブスでバカなんて、最悪じゃね?」と、「愛する」ジュンにからかわれるカヨちゃん。おまけにわきが。彼女が誰にでも体を許すのは、愛されたいから。ここにもセックスが愛されることと誤解する女がいる。でも私が若い頃から今まで、そんなの愛じゃないとを認識出来ていたのは、私を心から愛してくれる人、親がいたからじゃないのか?彼女を観て思いました。愛されることが女の幸せだというのは、私は認められてもいい価値観だと思うのです。だから愛を求める彼女を、私はバカだとは言いたくないのです。

カヨちゃんはバカだけどブスだけど、純粋で無垢な心の持ち主です。踏まれてもへし折られても、ひたすらジュンを許し追い求めるカヨちゃん。その姿は自尊心がないのではなく、私には彼らを抱く菩薩のように感じるのです。彼女のふくよかな体に触れると落ち着くと言うジュンとケンタ。それはカヨちゃんから、抱かれる事のなかった母の柔らかさを感じていたのでしょう。面白半分にカヨちゃんを置き去りにする彼ら。しかしその事は、カヨちゃんから「無償の愛」を引き出すのです。

「俺とお前は違う」とジュンに言うケンタ。私には同じに見える。兄がいる、それだけの事で、ジュンとは違うと思いたいのでしょうか?言われる度に気分を害するジュン。しかしケンカしても、また元の二人に戻ります。それしか仕様が無いと言う閉塞感が満ちている。

それは何故か?他者とはあまりに違う環境や生い立ちのため、繋がりが結べないから。自分の未来を嬉しそうに語るキャバ嬢(多部未華子)を観て、呆然として言葉をなくすジュン。彼には未来への希望も夢もないのです。夢と希望、それが若さの特権じゃないか。私は切なくてこのシーンで号泣してしまいました。二度ケンタとジュンがカヨちゃんを置き去りにするシーンがありますが、二度目の時は、二人は明確にカヨちゃんと自分達の違いを認識したのでしょう。彼女には好きな男に愛されたいと言う夢がある。だからこそ、彼女を巻き添えには出来なかったのです。


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06月27日(日)
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