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ケイケイの映画日記
by ケイケイ
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■「クロッシング」


久しぶりに声まであげて泣きました。脱北のことは盛んにテレビの報道番組でも取り上げられていて、出てくるエピソードは既に見知った事も少なからずありました。しかし知っている事が描かれているのに、切々と深々と感情を揺さぶられるこの力こそ、これこそが映画なのだと感じました。監督はキム・テギュン。100人以上の実際の脱北者に取材し、綿密に脚本を練り上げ、4年かかって作った作品です。

かつてはサッカー選手として国家代表にも選ばれたキム・ヨンス(チャ・インピョ)。今は炭鉱夫として働き、貧しいながら優しい妻と明朗な息子ジュニ(シン・ミョンチョル)とを養い、温かい家庭を築いていました。しかし充分な栄養も取れない暮らしが続き、妊娠中の妻は結核に罹りますが、療養費がありません。意を決したサンスは、身の危険を冒しながらに中国に渡り、出稼ぎすることにします。懸命に働くヨンスでしたが、妻はジュニの行く末を案じながら亡くなります。一人残されたジュニは、父親と再会すべく、中国を目指します。

泥だらけで肉体労働に励むサンスに、笑顔で迎える妻と息子。二人はヨンスに対して敬語です。そこには大黒柱として家族を養う夫・父に対しての、尊敬と信頼が伺えます。隣人との気のおけない交流、小学生同士の淡い初恋。北朝鮮と言えば、独裁政権下で悲惨な状況ばかりがクローズアップされますが、このように穏やかな笑顔で暮らす当たり前な一面もあるのだと、そこにまず意表を突かれました。市井の人々の心映えの美しさを目の当たりにし、新鮮でした。

しかしヨンスの妻が妊娠中に栄養失調から結核に倒れてから、ヨンス一家の暮らしは暗転します。真面目に働いても食うに困る生活。秘かに中国国境の警備員に賄賂を渡し、物資を密輸していた隣人も警察に捕まり、薬を入手出来なくなったサンス。そもそも結核の薬が、北朝鮮では入手困難なのです。家にある金目の物は全て現金に換えても、生活は苦しさを増し、ついにヨンスは家族を守る為、出稼ぎのため、一人中国への脱北を決意します。

設定は2007年なのですが、人々の暮らしぶりから街の様子まで、まるで終戦直後の日本なのです。テレビは貴重品、配給で手に入りにくい物は闇市で買い、ガスの使用もありません。日本ではもう30数年前に炭鉱は次々閉鎖されているのに、国家の貴重な資源として国民に吹聴するマスコミ。余りの文明の遅れに、とてもショックを受けました。しかし禁制の韓国のサッカーチームの試合のビデオを観ていたヨンスは、「ちゃんと食べているから動きが俊敏だ」と言います。かん口令が引かれ、北朝鮮の庶民は、韓国の実態をほとんど知らないと思っていましたが、どうやらそうではないようです。

幾度か脱北の様々な様子が出てきます。そこはやはり、賄賂が横行したり、脱北をビジネスにしている人々も出てくるのですが、胡散臭い人もいれば、人助けにしか見えない人もおり。観ていて複雑な気分になります。そしてやはり脱北の様子は命懸けです。万に一つの狂いも許されず、アクシデントは自分で乗り越えなければいけません。鬼気迫る迫力が、観ている者に伝わるのです。

夫の帰りを待たずに亡くなってしまう妻。こんな時日本なら韓国なら、10歳程の子が、路頭に放り出される事はないでしょう。しかしたった一人残されたジュニは、術もわからぬまま父のいる中国を目指します。

私は家族を置いて脱北した人は、何故残した家族が不遇を託つのを知っているのに、自分だけ脱北するのか?と不思議でしたが、この作品を観て「壮絶な成り行き」で、そうなった人がたくさんいるのだと理解出来ました。特に後半のヨンスの展開は、誰が悪かったというのではありません。生き残る事に懸命であった、ただそれだけのことなのです。ヨンスの雇い先の上司の、「誰にでも色んな事情があるんだ」と言う平凡な言葉が、とても胸に沁みます。


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05月03日(月)
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