ID:10442
ケイケイの映画日記
by ケイケイ
[927699hit]

■「母なる証明」


う〜ん、こう来ますか。内容は息子の無実を信じる母の愛と奮闘という、手垢にまみれたような題材です。これだけならパスしたのですが、監督がポン・ジュノなので、これは絶対観なければと初日に駆けつけましたが、流石はポン・ジュノ。一筋縄ではいきません。繁栄しているはずの韓国の、これも一断面なのだという自国へ向けての社会派的啓発と、普遍的な情の濃さと怖さが見事に浮き彫りになった作品です。

韓国の田舎町。トジュン(ウォンビン)は子供がそのまま大人になったような純朴な青年です。そんな息子が悪友のジンテ(チン・グ)とつるむのが心配なトジュンの母(キム・ヘジャ)。ある日この静かな田舎町で殺人事件が起こります。被害者は女子高生のアジョン。殺人現場に証拠品があったことから、トジュンが容疑者として逮捕されます。無実だという息子を信じ、奔走する母ですが、刑事も弁護士も相手にすらしてくれません。母は自分で真犯人を捕まえる決心をします。

オープニング、哀愁を帯びた、しかし陽気にも感じるギターの音色に合わせて、一心に踊る母の姿に引き付けられます。。その無心な様子は少し滑稽でもありますが、まさのその姿こそ、この作品で描かれる彼女でした。

トジュンは純朴というと聞こえはいいですが、要するにうすのろで少々おバカなのです。その息子を溺愛する母。この作品では一切父親の事が語られません。亡くなったのか離婚したのか、結婚に至らずトジュンを生んだのか、それすらわからない。これは意図的な「無視」なのでしょう。母と息子だけで生きてきた空気を、観客にも伝えたいからだと思いました。

前半はトジュンがどんな青年か、母親が如何に盲目的に息子を愛しているのかという描写が、いつものポン・ジュノ作品同様、毒気のあるユーモアが随所に挿入されながら、丹念に描かれています。私が目を見張った描写は、母がリップスティックの底の紅をすくい、指で塗る描写です。瞬時に男に会うのだと思いました。案の定相手はトジュンの弁護士。あの口紅はもうずっと使っていないものです。何年も前に生理も上がった年齢の、母親だけで生きてきた彼女。しかし息子のためなら、自分の朽ち果てている「女」が、少しでも役に立つならという、母親の執念が感じられるのです。

しかし演出にポン・ジュノらしさはあるものの、普通の母ものの域を超えない展開が、悪友ジンテの助言から一変します。犯人探しというミステリーと共に、社会派作品としての断面も鮮やかに浮かびます。

被害者アジョンの背景にあること。彼女はたくさんの男性と関わりを持っていましたが、その哀しい理由は、韓国の福祉体制が遅れていることを伺わせます。血縁関係を重んじる余り、何もかも家族で終結させようとする社会。しかし社会を恨むのでもなく、アジョンは「男は嫌い」と吐き捨てるように言うだけです。若い彼女ですら、自分の境遇を受け入れてしまうのは、幼い時からのすりこみでしょう。儒教精神は私個人は好ましいと思っていますが、行き過ぎると悲劇になるという見本です。

そして杜撰極まりない捜査。底辺に生きるトジュンやその母の存在など、虫けらのように扱われるのです。冒頭起きるひき逃げと暴行事件などもその象徴。わざわざひき逃げ犯の一党に大学教授を入れたのは、権力者にへつらう、昔ながらの韓国の体質を指摘しているのでしょう。

見てくれの良い容姿への熱望。不妊に悩む女性に、「この薬を飲んで私はトジュンを生んだのよ」と、にこやかに言う母。女性は大人になっても自立の出来ないトジュンの側面より、何度も「あの子は小鹿のような目をしている」と、トジュンの美しさを口にし、心動かされます。美容整形大国と言われる韓国ですが、確かに過度に容貌を気にするきらいがあります。だから私は、アジョンが関係した男たちの容姿を観て、本当に哀しかったのです。相手を選べない理由があったから。

ハンサムで腕っ節も強いジンテは兵役も終えています。しかしゴロツキのまま。韓国社会は、一度底辺に落ちると、這い上がる事は日本より困難だと思わせます。


[5]続きを読む

11月01日(日)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る