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ケイケイの映画日記
by ケイケイ
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■「バベル」
久々に映画の日に観て来ました。話題の作品にGWというのが重なり、場内ほぼ満席。イニャリトゥは「アモーレス・ペロス」こそ好感触でしたが、若干違和感が残り、続く「21g」でその違和感は増大。その力量は大いに認めますが、「凡人は相手にしていません」風の描き方が尊大な気がして、イマイチ苦手な人です。この作品も私なりに監督が伝えたいことも理解出来るし、見応えもありましたが、面白くはありませんでした、ときっぱり言ってみる。今回ネタバレです。
モロッコの険しい山間。羊飼いの兄弟が面白半分に試し撃ちしたライフルが、外国人観光客を乗せたバスの乗客に命中します。当たったのはスーザン(ケイト・ブランシェット)。夫リチャード(ブラッド・ピット)とともにアメリカから観光に来ていました。瀕死の彼女ですが、近くに病院がなく逼迫した状態になります。その頃アメリカに残した来た子供達・デビーとマイクの乳母アメリア(アドリアナ・バラーザ)は、リチャード夫妻の帰国が長引き、息子の結婚式のため、メキシコに帰れません。仕方無しに迎えに来た甥のサンチャゴ(ガエル・ガルシア・ベルナル)の車で、子供たちもメキシコの連れて行くことに。一方日本では聾唖の女子高生チエコ(菊地凛子)が、孤独な心を持て余し暴走していました。
またまたお得意の幾つかのお話を繋げ、時空をいじる手法。お得意というか、三作撮って三作ともこれって、普通には撮れないの?ちょっと私はうんざり。確かにモロッコ、メキシコ、アメリカのお話は繋がりますが、今回日本編は無理にくっつけたような印象です。
単独のお話自体は強い印象を残します。リチャード夫妻は末っ子の赤ちゃんが突然死してしまい、それぞれの対応に不信感が湧き、夫婦の溝を埋めるための旅行のようです。何故モロッコなのかはわかりませんが、他の観光客よりかなりこの二人だけ若いようなので、普通は仕事をリタイアした人が観光に選ぶ場所のような気がします。
私は突然死した子供を持つ両親のインタビューを集めた本を読んだことがあるのですが、あるお母さんは、「夫は『早く次の子を作ろう。そうすれば悲しみが癒される』と言うんです。殺してやろうかと思いました。」と答えていらしたのが、強く印象に残っています。もちろん夫も妻を思っての言葉で、決して悲しんでいないのではないのはわかっています。しかし他人が言えば聞き流せる言葉も、同じ亡くなった子の親である夫から聞けば、妻は絶望し殺意さえ湧くのは、私には理解出来ます。こういう時は真正面から悲しみを二人で受け止めたいのが、母親の気持ちなんだと思います。リチャードの「逃げていた僕を許して欲しい」と言葉や、二人のやり取りに、そういう母親と父親の違いがよく出ていました。
モロッコの羊飼いの家は、善良そうな彼の地では平凡な家なのでしょう。兄弟間の嫉妬や微妙な思春期の性を描いていましたが、私は年端のいかない少年の自慰行為を見せられるのはいやでした。姉の裸を盗み見したり、姉もそれを意識して面白がるなどの演出に嫌悪感が残ります。へき地の子の性の芽生えをこういう風に描いては、誤解されるんじゃないでしょうか?
メキシコパートは、物質は豊かではなくても、心から血縁者・隣人が、アメリアの息子の結婚を祝福する様子を描いて、寒々とした中産階級のリチャード夫妻とは対照的。リチャードだけではなく、瀕死のスーザンを置いてバスを出発させてしまう、他の乗客たちとも対比になっているかも。この宴席に居る人々ならば、決してあの夫婦を置き去りにしなかったろうと思います。子供達もすぐに二人を受け入れ、楽しそうに遊びますが、これが逆で白人の子ばかりにメキシコ人の子が入ったなら、どうなったでしょうか?ベルナルが久しぶりのメキシコ人役で、とっても楽しそうなのが印象的。
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05月02日(水)
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