ID:10442
ケイケイの映画日記
by ケイケイ
[927603hit]
■「きみはいい子」
季節外れなのに、桜の花びらが見えるあきこ。スーパーで代金を払うのも忘れます。しかし通学路、明らかに自閉症の奇異な行動を見せる弘也(加部亜門)が、きちんと挨拶出来る事に「偉いわねぇ」と、褒めてあげるのです。それは障害を持っているのに偉い、ではなく、子供として偉いと褒めている。弘也の本質を見ているのです。何気ない言葉ですが、はっとしました。多分今の私にも出来る。優秀な者を引き上げ、更なる位置に高めたいと思うのが男性の特性で、優劣関係なく平等に愛せるのが女性の特性だと読んだ事があります。若い時は若さの持つエネルギーが、時には余分な思考をもたらしますが、年齢が行くと、その余分なものが、一つ一つ剥がれて行くのがわかるのです。老いもまた、成熟なのです。
弘也の母(富田靖子)に、弘也を褒めるあきこ。謝ってばかりで褒められる事などなかったと涙ぐみ母。姉の子から、抱きしめられる事から得られる力を教えて貰う匡。娘を殴ろうとする雅美を抱きしめる陽子。毎晩毎晩、代わる代わる三人の子を抱きしめて眠っていた私は、あれは私が息子たちから力を貰っていたのだと気づきます。今の私を良い母親だと思って下さる方がいるのなら、それは息子たちが、私の母性を育てたのだと思います。あきこは、弘也の母の心を抱いたのでしょう。
クラスの子供たちに、誰かに抱きしめて貰う事を宿題に出す匡。思春期の入り口で照れくさいはずが、みんな宿題をしてくる。この時子供たちが感想を語ってくれますが、ドキュメントタッチだと思ったら、ここは自由に語らしたのだとか。秀逸な場面です。
多分陽子と匡の先輩教師は、夫婦でしょう。画面にツーショットになる事はありませんが、「そこのみにて光輝く」では、不毛で絶望的な関係だった二人が、まるで救済されたような気がしました。陽子の母親としての有り方は、障害児学級を担任する夫から影響されたものだと思いました。それに気づいた時、高橋和也の「きばらずに」は、「期待はせずに、希望を失わず」だと解釈しました。
最後に舞う季節外れの桜の花びら。今度はあきこだけに見えるのではなく、町中に舞っています。それはこの作品を観ている人へのプレゼント。心の中に芽生えた思いを、現象として表してくれているのでしょう。桜は入学式や新学期、新入社など、心を新たにする節目を象徴するものだから。ほんの一歩、それが難しいのですが、この作品から得た小さな勇気と力を、私も残りの人生に生かしたいと切に思いました。皆さんにもこの力が届くよう、願っています。
07月11日(土)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る