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ケイケイの映画日記
by ケイケイ
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■「フローズン・リバー」
対するライラも、子供を取り上げられたことのみに固執し、何故取り上げられたかは観ようとしない。目が悪いので他の仕事は出来ないというライラ。メガネは頭痛がするのだと。夫もこの仕事をしていた事、他の仕事は出来ないことを勝手な免罪符にしている彼女。姑は真っ当な稼業につかない母親だから、孫は渡せなかったのでしょう。ライラは本質を観ようとしていないのではなく、観たくないのです。何故なら一刻も早くお金を貯めて、子供を取り戻したいから。

そんな彼女たちの心を一変させたのは、密入国のパキスタン人の荷物を捨てたことからです。中身を知るや、一目散に我が身を省みず取り戻しに行く彼女たち。これが男の小悪党ならば、そのままにしていたと思います。母性がさせたことなのです。

最初に変化したのはライラ。まだ目が覚めないレイは、いやがるライラを誘い込みます。最初の出会いとは逆。しかし最後にお互いがお互いを庇う姿は、母親同士だと言う共通の絆があったからでしょう。「私が私が」のレイが、夜道を彷徨いながら脳裏に浮かんだのは、パキスタン人の若い母だったのでは?子供といっしょに暮らす事。母親にはそれ以上の幸せはありません。それ以外はみんな付録。ここでライラを置き去りにしたら、彼女には永遠に子供と暮らす日は来ないのです。貧しい生活の中、子供と暮らせる事だけを生き甲斐にしてきたはずのレイだからこそ、あの選択を選んだのだと思います。

親が真っ当になれば、子供も真っ当に。事の次第を知ってか知らずか、警察官の長男への温情が観客の心も包み込みます。ラストに見せる希望の光が、地に足がついているのが素晴らしい。子供のため、その思いは何よりも尊いが故、歪んでしまった母性さえ、人は寛容しがちです。だから誰も教えてくれない。自分で変化しなければいけないのです。レイとライラのもがく姿は、私を含む全ての母親への、自警と希望だと思います。

03月10日(水)
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