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ケイケイの映画日記
by ケイケイ
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■「切腹」
刀を売った石浜に対して、井伊藩の取った行動は、武士として正論であり建前です。しかし泣いて謝る仲代は、親であり人の子であれば、誰でもが持つ感情と本音であるわけです。同じ武士ならばこそ、刀を売った時の石浜の心情も痛いほど理解出来ましょう。物事には全て表裏があり陰日向があります。日向の道しか知らない人間の傲慢さを、「武士道」と言う名を借りて、描いているように私には思えるのです。

確かに石浜のしたことは、決して褒められたことではありません。しかし死ぬ気ではないのが明らかな者から、武士道と言う名の元、命まで奪われるほどの事なのでしょうか?それも寄って多かって笑い者にして。「苛めの原因は、苛められる方にもある」。この言い分と、どこか根底で繋がっているように感じるのです。

この話には何か裏があると、仲代には絶対切腹をさせようとする三国の前に、悪しざまに石浜の遺体を運んで来た丹波・中谷・青木の三名の髷を投げつける仲代。命までは取っていないと語ります。三人は三人とも、病気を理由に休暇を取っていました。髪が伸びるまで時間を稼ごうということです。そんな卑小な心しかない者が、「武士道」の名の元、石浜の命を奪い侮辱したのだと、豪放に嘲笑する仲代。髷を差し出したもう一つの理由は、石浜に灸を据えたいのなら、こういう方法もあったのだと言いたかったのでしょう。そのため、あえて命を奪わなかった仲代の心中や、察するに余りあります。

「命を奪うより、髷を取る方がよっぽど苦労したわ」と不敵に笑う仲代。三人はいずれも剣豪、取り分け丹波の腕は高名でした。しかし仲代は関ヶ原に出陣の経験がありますが、三名は出陣経験はなく、仲代から「所詮は畳の上の水練」と揶揄されます。三人から髷を奪うシーンも出てきますが、実践で秀でる仲代の方が、一枚上手と描かれます。会社や肩書で相手を見くびり尊大に接し、自分の中身は過大に評価してしまう、人の世の常が描かれているかと感じました。

仲代は何度も「この話は明日は我が身」「自分に刃を向ければ、無駄な死人や傷を負うものも出る」と、何度も言いますが、聞く耳を持たない三国。壮絶な立ち回りの末、切腹して果てる仲代に、鉄砲まで持ち出す井伊藩。たった一人で復讐し、武士の本懐を得て、この世に未練を残すことなく死んだ仲代と、刀しか持たない者に銃まで使わねば仕留められなかった井伊藩とでは、どちらが武士として上かは、明らかです。

教養高く心も高潔であった石浜に魔が差したのは、どうしようもないほどの生活苦からです。環境が人の心を変えたのです。建前だけではなく正論だけではなく、井伊藩の家臣の中に、誰か一人でも何故このような騙りをするのかと背景に気を配り、「情け」をかける人がいれば、たくさんの人が死ぬ事はなかったはず。人とは「武士」=肩書の前に、人間であらなければなりません。

この作品は1962年の制作ですが、驚くほど今の世相に照らし合わせてみる事が出来、驚いています。この世界で描かれる武士の欺瞞や理不尽さは、言い換えれば、人の世の永遠の課題なのでしょう。モノクロの陰影深い撮影は物語の奥行きを広げており、テーマの普遍性を強調していました。特に私が感心したのは、発熱の赤ちゃんの様子。モノクロなのに、しっかり頬の赤みが感じられます。夏の白の描き方も、ぎらつく感じは出ているのに飛んでおらず、しっかり目に残ります。さすがは名手ですね。

二時間あまり全く隙のない展開で、ずっと緊張感が持続するので、観た後ぐったり。しかしこの素晴らしい作品を観る事が出来た幸せは、何にも代えがたいものでした。

09月21日(月)
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