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ケイケイの映画日記
by ケイケイ
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■「3時10分、決断のとき」
ユマに到着するまでの道すがらは、西部劇らしい馬での追いつ追われつの様子や誰が生き残るのか?という銃撃戦、お約束の山間での野宿、インディアンまでアイテムとして上手く使うという、実にオーソドックスな作りながら、常にベンが、何をしでかすかわからない不敵さを匂わせているので、緊張感がずっと持続します。
ユマに到着してから、ホテルで待機してからの展開は、本当に秀逸。私はオリジナルを知らないので、本当に手に汗握りました。ベンの実力からしたら、例え手錠をかけられていたとしても、一人で逃げることは、いつでも出来たと思います。寸でのところで意外な人物が助けに入ったりしますが、それは目くらましで、私はダンがどこまで出来るか、ベンが確かめたかったから付いてきたように見えました。それはベンの家で食事を取り、平凡な家庭の姿を観た時、決めたのでしょう。油断ではなく、家庭への郷愁がそうさせたのではないかと思います。
絶体絶命の危機に、自分の気持ちをベンに語るダン。そこには妻子に男としての良心と誇りを見せたいダンがいます。その事にベンは気付いていたのでしょう。奇妙な連帯感が生まれ、お互いを思う心が会話の中で交錯します。そして息子たちに対する最大の気持ちを語るダンに、私は息を飲みます。
ダンは父親。私は母親。同じ親でも私はダンが抱く気持は、思ったことがないのです。父親と言う生き物は子供を選別し、優秀な子を引き上げる本能が備わっている。対する母親は、分け隔てなくどの子も愛する本能が備わっている。そう書物で読んだことがあります。父親の子供に向ける厳しい本能は、実は父親自身にも向けられているのだと、まざまざ感じました。
その言葉を聞いた時、ベンの気持ちが決まったのではないかと思います。俺の飲んだくれの親父だって、ダンと同じ気持ちを持っていたのだろう、でも叶わなかった。ダンのような気持ちを持ち続ける男が父親ならば、例え甲斐性はなくとも、母親は俺を捨てなかったのだ、アリスのように。付いてきたダンの息子は、ベンの男としての器量に憧れていました。その息子の前で、お前が憧れるのは俺なんかじゃない、お前の立派な父親だと、見せてやりたかったのだと思います。それは幼かった自分への慰めの行動でもあったでしょう。
サム・ペキンパーは、虫けらのようなアウトローたちの崖っぷちの男の意地を、凄惨な暴力描写を使って描き、観る者の心を熱くさせ、カタルシスを感じさせてくれました。悪党は悪党同士、深い絆がありました。しかし最後の最後、ベンが取ったような行動は観たことがありません。所詮悪党は悪党、絆などまやかしだと、ベンは語っているように思えます。「本当に悪い奴しか、ボスになれない」と、ダンの息子に語っていました。しかしそれは同じ悪党に向けた言葉なのでしょう。「良くやった」とダン見せた笑顔は、同じ悪党には決して見せなかった笑顔だと思います。
この作品のレビューをちょこっと読むと、「この男くさい世界、女性にわかるのか?」と言う男性諸氏の懸念の言葉が並んでいました。御心配めさるな。男を描くと言うことは、それを通して女は男を見つめている、と言う事です。私はダンにもベンにも、心打たれて泣きました。女だって充分理解出来ますよ。
この映画のことは伝えず、夫にダンの言葉を尋ねました。「父親なら、誰しもが思う事やろう。」という答えが返って来ました。ごめんね、お父さん。お父さんがそんな気持ちをずって抱いていたなんて、全然知らんかった。至らぬ妻で本当にすみません。この気持ちがあったから、夫は恵まれない時も自暴自棄にならず、ずっと真面目に生きてくれたのだと思います。ダンのように。
09月03日(木)
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