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ケイケイの映画日記
by ケイケイ
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■「歩いても歩いても」
「はず」というのは、長男が亡くなっていることです。他の家族の誰より、母親に色濃く残る長男の面影。墓参りのために口紅をつけ直すとし子は、恋人に会いに行くかのようで、本当に切ない。印象的な蝶の演出も、私だってあれは長男だと、咄嗟に思いました。幽霊であれ虫であれ、生ける姿でもう一度私のところの戻ってきてくれるなら、という思い。母親とは業の深いもんです。子を亡くした人に、「他にお子さんがいて、良かったですね」とは、絶対言ってはならないと、若い頃読んだことがあります。私も息子が三人いますが、三人いるから一人欠けても大丈夫などと思う親は、絶対にいません。とし子を観ていて、あの言葉は本当だなと、つくづく感じ入りました。
嫁のゆかりに対しての、本音を見え隠れさせながらの対応は、技ありのねちこさで、単純な嫁いびりの方が数段お嫁さんは気が楽です。表面はにこやかに受け入れつつ、内心は拒絶する高等技術は、私には多分無理だな(あぁ、良かった)。
しかしさすがは子連れで再婚のゆかりは、肝が据わっています。ひらりひらりと、夫の両親をかわして如才なく対応していく様子は、嫁の鑑のようです。なので一度だけ彼女が愚痴をこぼす様子が、とても心に染みました。連れ子のあつしは、実家に置いて来ても良かったでしょうか、連れて来たというのは、自分は良多の妻、あつしは息子だと認めて欲しいという、控えめな願いがあったからでしょう。避けて通ることも出来るのにと、この心構えは立派だと思いました。
そんなゆかりが内緒ごとのように、あつしと二人の時は亡くなった夫の話をするのが、とても効果的なアクセントになっています。やることがとし子に似ているのです。嫁と姑は似るというけど、まだ付き合いの浅いとし子とゆかりで、上手く表していました。
明朗で場の空気を和ます長女。実家に依存するところと、自分の家庭を守ることの区分けがきちんと出来ていて、良い娘だと思いました。たぶん父親似。彼女たちを見ていると、家庭とは本当に「女」で成り立っていると感じます。
そんな中、ホームドラマでは手抜きになりがちな男性陣も、しっかり描きこまれています。家族が集まるとついつい使っていない診察室に逃げ込む父は、多分昔から夫あしらいの上手い妻から、独り床の間に座布団10枚くらい積み上げられて、座らされていたんでしょうね。今更降りて来られないのが、とっても良くわかる。
疎遠な実家で、居心地の悪さと懐かしさを混濁させる良多の描き方も上手いです。兄亡きあと、本当はたった一人の男子として、もっと横山家で存在感を出さないといけないものを、亡くなって15年も経つのに、未だ実家では自分より兄の方が存在が大きいのです。二男の葛藤という永遠のテーマは、長男が亡くなっても残るのだと、再認識しました。少々鈍感だけど、善良さいっぱいのちなみの夫(高橋和也)にも、和ましてもらいました。
すごく印象的だったのは、父が近所の老婆の往診を断ったことです。医院は閉院しても医師免許は返上していないはずで、往診なら問題ないはずです。ですが、もう老いた自分の手に負えないと判断した父は、救急車をと促します。ずっと診ていた患者のはずで、長年開業医として、この地で人々から尊敬を集めていただろう恭平の無念や、いかばかりだったかと思います。患者の生命のため、己の誇りを捨てたわけです。
じっと見つめる良多。彼は家族、取り分け父親への見栄のため、失業中だということを隠しています。彼が失業中だとわかれば、両親のゆかりに対しての扱いも変わったことでしょう。良多は父と比べて、自分の卑小さを思い知らされたと思います。
子供にとって親とは、小さい時は完全無欠の人で、絶対超えられない壁でしょう。それが大きくなるにつれ、親の弱点や欠点も知り、反抗したり鬱陶しく思ったりするものです。そして本当の大人になると、あんなに普通の人だった両親が、懸命に自分を育て愛してくれたのかと、敬意を払い大切にする心が芽生えるものだと、私は思うのです。良多は自分がまだまだ子供であると、思い知ったのだと思います。
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07月24日(木)
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