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ケイケイの映画日記
by ケイケイ
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■「潜水服は蝶の夢を見る」
ジャン・ドゥーが自暴自棄にならなかったのは、「記憶と想像力」に長けていたからです。スキーをした記憶、恋人と旅行をした記憶、三人の子供たちと遊んだ記憶。口から食べられない彼は、今まで食したあらん限りの贅沢な御馳走を想像し、傍らにいる、今一番のお気に入りの美女クロードと食事をするのです。この様子はかなりエロティックで、食欲と性欲は密接に関係があるのだと、粋に大人っぽく表現していました。
老いた父(マックス・フォン・シドー)との電話越しの「会話」は、シドーの、老いの黄昏を滲ませた抜群の好演もあって、本当に泣かされました。「父の日」に、ジャン・ドゥーの三人の子供たちは、父を訪れます。<昔は鬱陶しかった「父の日」。それがこんなに嬉しいとは>という彼の独白は、何かを失って初めて大切なものに気付くと言う、誰にでもありがちなことを、教えてくれます。
彼の心が荒まなかったのは、何故だろうと考えます。奇跡を否定しながら、自由に歩ける自分を想像するジャン・ドゥー。それは希望と言えるものなんでしょうか?本を書くのも希望だったでしょう。しかし一番に彼の心を支えたのは、物言えぬ赤ちゃん同然の彼を、人として男性として、周囲が接したからではないでしょうか?そこには憐れみはありません。人として生きるのは当たり前だという、強制ではない自然な心が感じられました。
闘病ものというと、医療者側は医師が描かれることが多く、この作品のように、いわゆるコメディカルと呼ばれる医師以外の言語療法士が、医療者側として主に登場するのは、とても斬新な気がしました。地味な分野ではありますが、病状が安定してお世話になるのは、この人たちです。コメディカルさんたちの存在の重要さが、認識されればいいなと思いました。
介護の実態は厳しいものです。18年前実母ががんで病院に入院していても、私には幼い上の子たちもいて、疲労困憊になりました。勝手に離婚し、自分の身内とも縁を切り、私と妹だけしか世話する人がいない状態にした母を、憎いとさえ思いました。だから老々介護の末に、心中という記事を読むにつけ、どんなに辛かっただろうと、私は理解出来るのです。このように病院で手厚い介護を受け、別れた子供たちの母親、子どもたち、友人や新たな友(クロード)がそこかしこにいるジャン・ドゥーは、ある意味理想的だったのでしょう。
しかしこれは実話です。実話ほど勇気づけるものはありません。姑が無事退院出来たとして、年齢からして、その後は辛いリハビリが待ち受けているでしょう。幸い周りに人手はたくさんあります。実母の時は病院で世話した帰り、もうすぐ母は死ぬのだと、泣きながら自転車を走らせた私。息子たちの待っている幼稚園の前で涙をぬぐい、「私もお母さんなんだ」と母親に戻った日々が懐かしく思い起こされます。今はその時は影も形もなかった15歳の三男が、時折姑の行く末に涙ぐむ私の背中をさすってくれます。ありがとう、お婆ちゃん。長生きしてくれたおかげで、みんなでお世話出来るよ。だから必ず退院してね。
02月29日(金)
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